本日のローズンゲンの御言葉です。

空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。エレミヤ8:7

キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。テトス2:14

本日は、土曜日ですが、今日はこれから明日の礼拝に向けての様々な準備がなされる予定です。

今回、インターネットでの礼拝を行なうということになり、できるだけ奉仕も少なくしようということが話し合われました。しかしながら、インターネットの礼拝を続けるためにも、週報作成やお花当番、パワーポイント作成などの奉仕は引き続きなされています。

お花当番の奉仕者は、土曜日にお花の奉仕をし、日曜日当日にはインターネットで礼拝をされている方もおられます。そのような奉仕に本当に頭が下がる思いです。改めて、毎週毎の礼拝が多くの方々の祈りや尊い働きによってなされていることを痛感しています。

本日の箇所には、次のように記されています。

「空を飛ぶこうのとりもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない。」

本日の箇所を読みながら、「季節」を守り、「とき」を大切にする「こうのとり」や「山鳩」「つばめ」「鶴」の姿が心に迫ってきました。私たちは今このとき、通常とは異なる困難に向き合われています。自宅待機を余儀なくされ、日々を悶々と過ごしています。

ある人が今の「とき」を「出エジプト記に記されている過ぎ越しのときのようだ」と語っていました。出エジプト記12章には、「主の過ぎ越し」の記述が記されています。

この時、人々は家の中で、主の裁きが通り過ぎるのを祈りつつ過ごしたことが記されています。その記述と、私たちが現在、自宅待機で事柄を落ち着くのを待って過ごしている様子が重なってくるのではと語っていました。確かにそうかも知れません。いずれにしても、今、私たちは困難な「とき」を過ごしています。このような「とき」こそ、私たちが今の「とき」を見極めて、私たちがすべきことを守っていけたらと思います。何より、自らの命と周りの人の命を大切にするための行動をわきまえながら、「主の過ぎ越し」のイスラエルの民のように、主の恵みの業を待ち望み、主を見上げ、この「とき」を過ごしていきたいと思います。(鈴木牧人)

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