「イエス・キリストは主である」

フィリピ2:10-11

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(2:10-11)

私たちは、これまで初代教会の人たちが讃美してきた「キリスト讃歌」について読み進めてきました。その締めくくりが本日の箇所です。「キリスト讃歌」は天上のもの、地上のもの、地下のものの舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるんだという言葉で締めくくられています。初代教会の人たちは、どんな思いで、この「キリスト讃歌」を讃美したのでしょうか。当時、教会は本当に小さな群れでした。周りから見れば、吹けば飛んでしまうような存在だったと思います。そんな彼らにとって、この「キリスト讃歌」は「自分たちを取り戻す言葉」だったのではないかと思います。様々な現実の問題に揺さぶられ、自分たちの小ささや無力さを見せつけられながら、この「キリスト讃歌」を歌った時、彼らは「この現実のただ中に主が生きて働いておられる」という思いを心に刻んでいくことができたのだと思います。そして、「この中にあっても、イエス・キリストこそが主なんだ」という思いを取り戻すことができたのではないかと思います。そのように「キリスト讃歌」の歌を讃美しながら、初代教会の人たちは、自分たちの信仰を、自分たちが立つべき場所を取り戻していったのです。

私たちは現在、新型コロナウィルスの様々な問題のただ中にあります。そのような中にあって、事がら一つ一つに冷静に、賢明に、対処していきたいと思っています。目先の情報に振り回されたくないと思いますし、だからと言って問題を軽んじてしまうこともないようにしていきたいと思います。きちんと対処すべきことに対しては、緊張感をもって対処もしていきたいと思います。ですが、実際にそのような問題の最中に置かれている時というのは、そうできないこともあります。様々な問題に対して、できる限りの知恵でもって、冷静に物事に対処していきたいと思いながら、何が賢明で正しいことなのか分からなくなってしまうこともあります。大切なことが何なのか見えなくなってしまうことがあります。自分自身のこととして、そんなふうに思うのです。そんな自分を顧みながら、つくづく考えさせられるのは、祈りに繋がること、御言葉に繋がることの大切さです。まずそこから始めていきたいと思うのです。そして、どうしても一人では迷ったり、心が弱くなってしまうこともありますから、しっかりと教会に繋がっていたいと思うのです。そして、本日の箇所に記されている「キリスト讃歌」を覚えていきたいと思います。初代教会の人々が歌い継いだ信仰を心に刻んでいきたいと思います。様々な現実の課題の中、自分たちが無力に思えるような状況にあって、その中でイエス・キリストを見上げていきたいと思いますし、「イエス・キリストが主である」という信仰に生かされていきたいと思います。この信仰が初代教会の人たちを一つところに立たせたように、私たちも一つところに立たせてくれるのだと思います。

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