「イエスが背負っていたもの」

ヨハネ19:17-30

私が福岡に来たばかりの頃、知り合いの牧師に海釣りに誘われたことがありました。釣りは久しぶりでした。それ以上に海に来ること自体、久しぶりでした。埠頭に立ち、釣り糸を垂らして、釣りを始めました。その時、スーッと海風が通り抜けたのですが、何とも言えない懐かしい思いが湧き上がってきました。自然に体中が抱かれていることを実感する感覚でした。その時、海風や潮の香りに包まれながら、自分の中で忘れてしまっていた感覚を取り戻すような思いにさせられました。同時に自分の中にあった色々なものがスーッと抜け落ちていくような感じがしたのです。

 よくよく考えてみれば、それまで福島にいて、しばらくこんなふうに自然に親しむということができていませんでした。2011年に東日本大震災があり、それに続いて東京電力福島第一原子力発電所の事故が起こりました。それから二年間、放射能の問題と格闘するような毎日が続いていました。何気ない日常でも緊張感がありました。外を歩いていても「公園の草には触れないでいよう」とか「道路の脇の側溝部分は放射線量が高いから近づかないでいよう」とかばかり考えていました。いつの間にか、自然を見て喜んだり、楽しんだりという感覚は持てないでいました。ましてや海で釣りを楽しむなんてことはできませんでした。そういう中で、忘れかけていた懐かしい感覚を取り戻す思いでした。同時に自分の中にあったどこか力んでいた部分がほぐれていくような、肩の荷が降りていくような、そんな感覚にさせられたのです。

 その時、しみじみ思ったことは、自分でも気づかない内に色々なものを抱えていたんだなということでした。福島ではそれが日常になっていましたので、自分でも分からなくなっていました。ですが、自分でも気づかない内に色々なものを抱えていたのです。そういうことが、ふっと解き放たれた時に初めて分かると言いますか、自分は色々と抱えていたんだなと気づかされたのです。

 本日の箇所の「イエスは、自ら十字架を背負い」(19:17)という言葉の「背負う」という言葉について考えながら、ふとその時のことを思い出しました。何というのでしょう。私たちはそれぞれ色々なものを背負っているのではないでしょうか。自分でも気づかない内にそうしていることがあるのではないかと思います。この数か月の間を振り返っても、そう思います。新型コロナウィルスの問題の中で、気づかない間に、心の中に色々なものを抱えてきたりしてこなかったでしょうか。私たちはそんなふうに日々の様々な問題に格闘しながら、色々なものを背負っていることがあるのだと思います。そんな中、本日の箇所の箇所に記されている「イエスは、自ら十字架を背負い」という言葉を心に留めながら、ぜひとも考えていきたいことがあるのです。それは、イエス様は何のために十字架を背負われたのだろうかということです。それは、何より、私たちが抱えている重荷を取り除くためです。私たちを重荷から解放し、救い出してくださるために、イエス様は自ら十字架を背負われたのです。

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