「不平から喜びへ」
フィリピ2:14-18
本日の箇所には「何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい」ということが書かれています。この御言葉を読んで、その通りだと思う一方で、実際の歩みを思う時、分かっていても、中々そうすることができない私たちがいたりしないだろうかと思ったりします。そんな中、思ったことは、この「不平を言わずに」という言葉を「そういうことを言わないで我慢しなさい」というふうに受け止めてしまうなら、辛いんじゃないかなということでした。しかし、本日の御言葉が語っていることはそういうことなんでしょうか。
以前、ある方からこんなことを言われたことがあります。
「怒りには色々な感情のあらわし方があるんですよ。湧き上がる衝動のまま、怒りをあらわすということもあるかも知れません。ですが、その一方で、感情が表には全く現れてこないということもあるのだと思います。そのどうにもやりきれない感情を自分の内側に向けてしまうのです。すると、その感情は怒りではなく、諦めだったり、いじけるというような感情になるのです。そんなふうに、諦めだったり、いじけというのは、根本的な思いは同じなんです。それを外に向けるか、内側に向けるかの違いなんです。」
お話を聞きながら、私たちが怒らないように、我慢してしまうことが、怒りの問題の解決になるわけではないんだなと思いました。本日の箇所で言われている「不平」も同じなのではないでしょうか。「不平を言わない」ということを、自分の心に蓋をして、我慢するということにしても問題の解決にはならないんじゃないかと思うのです。
それでは「不平を言わない」という言葉を、私たちはどのように受けとめることができるでしょう。まず思うことは、私たちの中から不平が出てきてしまう時に、その原因というのはどこにあるんだろうかということでした。色々なことが言えるのかも知れません。しかし、私自身をかえりみて思うのは、自分の中で受け止めきれない色々な思いがそこにあるからなんだろうと思います。どうにも納得できない思いがあったり、腹が立ってしかたなかったり、悲しかったり、そういうやり場のない色々な思いがあって、その思いが不平として出てくるんだろうと思うのです。そんな中、大切なことは何だろうと思う時、何より思うことは、私たちの心にある色々な思い、やり場のない思い、痛みや悲しみを癒し、解放してくださる方に出会うことなんじゃないかと思うのです。私たちの思いをちゃんと知っていてくださる方に出会うこと…。心のうちの一番深いところの思いまでも分かっていてくださっている…。ちゃんと受け止めてくださっている方に出会うことなのだと思います。色々あるけれども、この方がいてくれるから、大丈夫だと思える…。そのように私たちが信頼できる時、私たちはそういう不平から癒され、解放されるのではないでしょうか。自分の思いに蓋をして我慢をするということではなくて、不平を言わなくてもよくなるのです。そのように「不平を言わない」ということで大事なのは、私たちが不平で心が囚われてしまっている状況の中、いつの間にか見失ってしまっているものを取り戻すことなのではないでしょうか。