「彼のような人々を」
フィリピ2:19-24
本日の箇所には一人の人物が登場します。エパフロディトという人物です。彼はフィリピ教会のメンバーでした。ある時、フィリピ教会の人たちは、牢獄に捕らえられていたパウロを助けるため、エパフロディトをパウロのもとに派遣します。しかし、エパフロディトはパウロのもとにやって来ると、病気になってしまうのです。理由は定かではありませんが、ひん死の重病でした。結果、パウロがエパフロディトを介抱することになります。パウロを支えるためにやって来たはずなのに、逆にパウロに助けてもらい、早々にエパフロディトはフィリピ教会に引き返すことになりました。そういう状況の中で、パウロがエパフロディトについて書いているのが、本日の箇所です。
エパフロディトはこの時、どういう思いだったのでしょう。本当にやり切れない思いだったんじゃないかと思います。自分は一体何をしているんだろうか…。そんなふうに自暴自棄になったりしたんじゃないかと思います。パウロを支えようと思っていたのに、逆に迷惑をかけてしまう…。パウロに対して本当に申し訳ないという思いがあったと思います。それと同時に、自分を送り出してくれたフィリピ教会の人たちに対しても申し訳ない…。そういう思いだったのではないでしょうか。
エパフロディトについて考えながら、つくづく思わされるのは「私たちの歩みには思いもよらないことがある」ということです。こうしたいと願いながらも、思わぬ出来事に見舞われ、その通りにいかないことがあったりするのです。ですが、そういう状況を思いながら、パウロが本日の箇所で語っている御言葉を読む時に、本当に色々なことを教えられます。パウロは、エパフロディトの件で、本当のところ、一番迷惑を被ったはずの人だったのではないでしょうか。ですが、パウロはエパフロディトが自分のところに来たことを本当に喜んでいるのです。牢獄にいる自分のことを思い、支援しようとしてくれたエパフロディトやフィリピ教会の人たちの思いを受け止め、感謝しているのです。その思いが2:25には表れているのだと思います。またエパフロディトが病気になって、残念だったり、心を痛めたりしてきたのだと思います。しかし、そのような中にあっても、神様の恵みは示されたんだということも語っています。2:27では「彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました」と語るのです。そして、さらに、エパフロディトが十分な働きをすることができなかったことを恥じたり、批判したりするのではなく、エパフロディトがフィリピ教会の人たちのところに帰った時には「主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。」(2:29)と語るのです。
このパウロの一言一言に本当に教えられます。パウロのエパフロディトやフィリピ教会の人たちに対する深い配慮や優しさを思います。ですが、それ以上に、単なる優しさということだけではない「信仰者としての大事な眼差し」があるのではないかと思うのです。