「キリスト・イエスを知るすばらしさ」
フィリピ3:1-3
本日の御言葉にはパウロの生い立ちが語られています。パウロという人は、言うなれば、ユダヤ人社会における「エリート」でした。パウロ自身、「ヘブライ人の中のヘブライ人です」(3:5)と語っています。イスラエルの初代王であるベミヤミン族の血筋で、ユダヤ教の律法の規定に則って、誕生して八日目に割礼を受け、その後もファリサイ派のグループに所属し、律法を厳密に守って歩んできました。そんなパウロは自分について「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」(3:4)と語っています。しかし、そのようないわば「華々しい人生」を送りながら、大きな転機を迎えます。パウロは、ファリサイ派こそ正しいと信じるあまり、「イエス・キリストを信じるなんてとんでもない」と考え、クリスチャンを迫害するのです。しかし、ダマスコの途上で、イエス・キリストの幻に出会います。その時、自分がしでかしてきたことがとんでもない間違いであったことを知らされるのです。パウロはイエス・キリストこそが、本当の神の御子であること、そして、自分たちが待ち望んでいたはずのメシアであることを知らされました。パウロは人生のどん底に突き落とされたように行き詰ってしまいます。しかし、その中で福音に出会い、変えられ、これまでと違う人生に導かれていったのです。
本日の箇所で心に留まるのが3:8です。「そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」パウロはこの一連の様々な出来事を経験し、至った思いが「キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」ということでした。ここにはイエス様との出会いを通して、これまでの価値観、考え方が全く変わったパウロの様子が記されています。「肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない」と言えるような「華々しい人生」からは状況が一変したかも知れませんが、そんな今、主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、他の一切が損失と思ってしまうほどなんだと思う…。そのように価値観、考え方が変えられ、目指すものが変わってしまったパウロの姿があるのです。
このパウロの言葉を読みながら、「イエス・キリストに出会う」ってこういうことなんだなと思います。私たちは、イエス・キリストとの出会いを通して、「私たちの中の物差し」が大きく変えられていくのです。そんな中、本日の箇所でパウロが語っているように、それまで私たちが魅力を感じていたり、絶対だと思っていたものが必ずしもそうではないということに気づかされることもあるかも知れません。その一方で、私たちはそれまで見過ごしてきたものに、尊さや価値を見いだすこともあるのだと思います。そのように私たちは、キリストに出会う中で「私たちの中の物差し」「価値観」が変えられながら、本当の価値あるものは何か、本当の豊かさとは何かということに気づかされていくのです。