「主において喜びなさい」

フィリピ3:1-3

本日の御言葉を読みながら、一つの聖書箇所を思い出しました。ヨハネ12:12-19には、イエス様がエルサレムに入城された時の様子が記されています。この時、エルサレムの人たちはこぞってイエス様を喜び迎えました。しかし、その様子を面白く思わない人たちがいました。ファリサイ派の人たちは、何とかして、人々がイエス様を歓迎して迎えていることを止めさせようとしたのです。しかしながら、最終的に「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(ヨハネ12:19)と匙を投げたことが記されています。

本日の箇所で、パウロは「主において喜びなさい」(3:1)と語った後、そのようにして主において喜ぶことは「あなたがたにとって安全なことなのです」と語りました。このメッセージを読みながら、エルサレム入城の場面でイエス様を喜んでいた人々の様子が思い出されました。彼らがイエス様を喜び、迎え入れようとした時、ファリサイ派の人々がそれを妨害しようとしましたが、いくら妨害しようとしても、なす術がありませんでした。「主を喜ぶ」ってこういうことなんだなと思います。主において喜ぶことには力があるのです。「エルサレム入城」の時のように、私たちの周りには、私たちが主を見上げ、主を喜ぼうとする者を妨げようとするものがあるかも知れません。しかし、私たちがイエス様を見上げ、心からの喜びに溢れている時、その喜びを妨げることができないのです。そのように私たちが主の喜びに生かされている時、私たちは安全なのです。

ただ一方で、聖書が語っているエルサレム入城のその後の記述にも注目する必要があるのだと思います。先ほどのヨハネによる福音書で、ファリサイ派の人たちは、エルサレムの人々が喜びに溢れている様子を見て、「何をしても無駄だ」と思いました。ですが、それから一週間も経たない内に状況は一変し、人々はファリサイ派の人々、律法学者、祭司長たちに先導されるがまま、イエス様に対し、「十字架につけろ」と叫ぶようになっていました。何でこんなことになってしまったのでしょう。不思議でなりません。しかしながら、聖書を読んで気づかされることは、この数日間の間に、人々の中に、エルサレム入城の時にはあったような讃美の歌声は無くなってしまったということです。彼らは主において喜ぶことから離れてしまったのです。そのことと人々が変わって行ってしまったことは繋がっているのだと思います。人々が主において喜ぶことを忘れてしまうと同時に、だんだんとファリサイ派の人々や律法学者、祭司長たちの声が、人々の間で幅を利かせるようになり、人々の思いは変わってしまったのです。

このことは私たちに大切なメッセージを語っているのではないでしょうか。主において喜ぶことは力があります。私たちにとって安全なことです。その時、私たちの心は守られ、確かにされていくのです。しかしながら、私たちはせっかくいたはずの安全な場所から迷い出てしまうことがあります。主において喜ぶことを見失ってしまう私たちがいるのです。その時、私たちはよくよく注意していないと自分を見失い、周りに流されることがあるのです。

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