本日のローズンゲンの御言葉です。

「主よ、あなたはわたしをご存じです。わたしを見て、あなたに対するわたしの心を/究められたはずです。」エレミヤ12:3

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」ヨハネ15:9

ずいぶん前のことになりますが、ある人がこんなことをおっしゃっていました。

「連想ゲームをしましょう。詩というものは、しばしば何かを抽象的な別なものにたとえて表現します。今からあげる4つのものは、いつくかの詩に実際に書かれているものです。全て、『あるもの』をたとえて語っています。その『あるもの』とは何でしょうか。一つ目は『河』です。二つ目は『光』です。三つ目は『鏡』です。そして、四つ目は『バス』です。これらは皆、『あるもの』をたとえています。何だと思いますか。」

そんな質問でした。答えはこうでした。

「答えは『愛』です。インターネットの歌を調べたところ、色々な歌で『愛』を語っていたのですが、これらにたとえられて語られていました。改めて『愛』のイメージには、様々なバリエーションがあるんだなということを痛感しました。このことは豊かさと受けとることもできると思います。ですが場合によっては、それは何とも言えないとらえどころのない曖昧さに受け取られることがあるかも知れないと思います。」

その方がそんなふうにおっしゃっていました。本日の箇所には、次のように記されています。

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」

本日の箇所には「愛」ということが語られていますが、この「愛」という言葉を読みながら、先ほどの言葉を思い出しました。私たちにとって「愛」というものは、麗しい響きを持つものだと思います。ですが、それは時に、非常にとらえどころのない曖昧さを抱えているものなのかも知れないとも思います。そんな中、大切なことは、私たちが「愛にとどまろうとしていくこと」なのかも知れないと思います。私たちが私たちなりに、愛にとどまろうとしていく時、曖昧だったはずの愛が根を張り、一つの確かなものとして育まれていくということがあるのではないかと思うのです。先ほどの歌の歌詞についてですが、もう一つ、愛について思い出したことがありました。昨日、歌番組で宇多田ヒカルさんの『花束を君に』という歌を聞く機会がありました。その歌にこんな歌詞がありました。

「毎日の人知れぬ苦労や淋しみの無く/ただ楽しいことばかりだったら/愛なんて知らずに済んだのにな」(『花束を君に』)

この歌を聞きながら、「愛」について再び考えさせられました。毎日の人知れぬ苦労や淋しみの無く、ただ楽しいことばかりを過ごしていたら、「愛」というのは分からないままであるかも知れない…。逆を言うなら、私たちが「愛」を本当の意味で知るためには、楽しいことばかりではなく、毎日の人知れぬ苦労や淋しみを通ることが必要なのではないかということなのだと思います。「愛にとどまる」ということは、こういうことなのかも知れないなと思います。使徒パウロは、愛とは労苦を伴うものだと語っています(Ⅰテサロニケ1:3)。そんな色々なことを考えさせられながら「愛にとどまりなさい」との御言葉に思いを巡らせました。

私たちが愛にとどまって歩もうとする時、色々なことがあるかも知れません。苦労させられることや、淋しい思いを経験することもあるかも知れません。しかし、そのような中でもなお、愛にとどまろうとしていく時、真実の愛が私たちの心に奥底に根づき、より確かなものとして育まれていくのではないでしょうか。そんな愛に育まれることができたらと思いました。

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