本日のローズンゲンの御言葉です。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」イザヤ55:1

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」ヨハネ4:14

本日の箇所には、次のように記されています。

「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。」

この御言葉は預言者イザヤの言葉です。新共同訳聖書のイザヤ55:1のすぐ前の小見出しには、次のように書かれています。「御言葉の力」つまりここで言われている「水」とは「御言葉」のことです。本日のローズンゲンの御言葉には、ヨハネによる福音書で、イエス様がサマリアの女性に語られた言葉も記されています。

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

ここでイエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と語りました。この「水」も「御言葉」のことでした。本日の二つの御言葉を読みながら、改めて、私たちにとっての御言葉は、魂の泉であり、私たちの心に永遠の命を与えるものなんだなと思いました。そんなことを思いながら、ふと昨年、天に召されたK兄のことを思い出しました。K兄は、2018年12月に頭にこぶができ、診察をしたところ、「血管肉腫」と診断されました。九大病院で受診をされた後、九州医療センターで放射線治療をされることになりました。放射線治療自体は通院で行なおうとしていた時もあったのですが、ご自宅で転ばれて、それを機に入院をされました。その後、日常生活が難しいだろうということで、医療センターを退院した後、介護付有料老人ホーム西の丘にご夫婦で入居されていました。その後、再び、「血管肉腫」の状況が悪くなり、7月26日に村上華林堂病院に入院し、ちょうど一週間ほどで天に召されることとなりました。K兄は本当に御言葉を求めていた人でした。入院されてから教会の礼拝に来ることができない状態が続いていましたが、入院前、毎週の日曜日に礼拝堂の前の方に座っていました。耳が遠かったので補聴器の受信機を教会のスピーカーの前に設置し、熱心に礼拝のメッセージを聞き取りながら、要点をノートに書きとっていました。入院をされてからは、説教要旨をいつも熱心に読んでくださっていました。そんなK兄の姿を見る時、K兄にとっての御言葉はまさしく「命の水」なのだと思いました。K兄の葬儀の後、一人の姉妹がこんなことをおっしゃっていました。

「K兄から本当にたくさんのことを教えていただきました。いや、これからも教えていただくのだと思います。K兄のことを思い出す度に、これからもそこで色々なことを教わっていくのだと思います。」

お話を聞きながら、「本当にそうだな」と思いました。本日、改めて、この御言葉を噛みしめながら、K兄のことを思い出しました。そして、K兄のように、御言葉に出会い、その御言葉から魂の渇きを癒され、満たされ、日々を歩んでいきたいという思いを新たにされました。

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