「キリストの内にいる者」

フィリピ3:8b-11

 本日はペンテコステ礼拝です。使徒言行録2章にはペンテコステに起こった出来事が記されています。この時、弟子たちに聖霊が降りました。すると、弟子たちは聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出したのでした。この時、ちょうど、五旬祭の祭りを祝うために、世界各地から人々がやって来ていました。人々は「どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(使徒2:8)と言って驚いたのでした。

「めいめいが生まれた故郷の言葉を聞く」ということについて考えてみたいと思います。「故郷の言葉」というのは、その人にとって特別だと思います。他の言葉にはない響きがあるのではないでしょうか。その言葉を聞くと、自然と心に入ってきたり、何とも言えない安心感を感じたりするかも知れません。いずれにしましても「故郷の言葉」は、私たちにとって、何より近い言葉なのではないかと思います。ペンテコステの時、人々はそのような「故郷の言葉」でもって神様の偉大な御業が語られているのを聞いたのです。

 ちょっと違う視点になりますが、最近、「言葉」について考えさせられた出来事がありました。先日、何人かで一緒に話していたら、こんな話になったのです。

「最近、よく色々なところで、『繋がろう』とか『一つになろう』とか言うのを聞くんだけれど、どうもそういう言葉が好きになれないんだよね。」

 そこにいた幾人かで「その気持ち何となく分かる」と話しあっていました。私はそれを聞きながら「なるほどなぁ」と思いました。「繋がろう」とか、「一つになろう」という言葉…。決して、悪い言葉ではありません。むしろ大切な言葉です。ですが、そういう言葉を好きになれない…。どこか違和感を感じてしまっているのです。理由は様々なのだと思います。ですが、一つ思うことがあります。それは、それほどまでに、私たちは、この数か月、色々な思いを通らされてきたんじゃないかということです。コロナの自粛生活の中で、私たちはそれぞれの場所で様々な思いを通らされてきました。そんな中、その人その人にしか分からないような思いや言葉を積み重ねてきたのではないかと思うのです。そういう思いを抱えながら、いきなりそういうことを飛び越えて、「繋がろう」とか「一つになろう」と言われてしまっても、どうにも心がついてこないし、言葉が入って来ない…。違和感を感じてしまう…。そういうことってあるのではないかと思うのです。

それぞれの世界を生きてきて、思いや歴史を積み重ねていくということは、そういうことではないでしょうか。それは使徒2章に記されているペンテコステの日に集っていた人たちもそうだったと思います。そんな彼らがペンテコステに経験したことは、めいめいが生まれた故郷の言葉で、神の偉大な業を語っているのを聞いたという出来事だったのです。

私たちはこの数か月、それぞれ色々な思いを通らされてきました。しかし、主は私たち一人一人の思いをご存じです。そして、私たちの心に触れる言葉で、御自身を現わしてくださいます。ぜひペンテコステの時にそのような聖霊との出会いが起こされることを祈ります。

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