「何とかして捕らえようと」

フィリピ3:12-16

 新型コロナウィルスの自粛生活が続く中、何とも言えない悶々とした日々が続く中、一枚の絵を描きました。預言者エリヤを描いたものです。タイトルを『神との対話』とさせていただきました。できあがった絵をSNSにアップする際、こんなコメントを書きました。

「預言者エリヤは、干ばつの期間の数年間、ケルトの川のほとりで過ごしました。この間、数羽のカラスが毎日朝夕にエリヤのもとにやって来て、パンと肉を運んで来ました。エリヤはそれらのカラスをどんな思いで見つめていたでしょう。毎日毎日食料を運んでくるカラスに、神の不思議な取り扱いをひしひしと感じていたかも知れません。ですが、それで何とか飢えを耐え忍ぶことができたとは言え、目の前の現実はあまりに厳しいものでした。干ばつの余りのしんどさに思い悩んだりしたのではないでしょうか。いずれにしても、エリヤはカラスと対面しながら、他の人には分からないような神様との対話をたくさんしていたのではないかと思います。私たちも新型コロナウィルスの課題を目の前にしながら、しんどい思いをしたり、思い悩んだりしています。神様を見上げようとしつつも、心振るわれるような思いにさせられることがあります。そんな思いの中、カラスと対面する預言者エリヤを描きました。エリヤがそうであったように今私たちはそれぞれ様々な現実に向き合わされながら、置かれているそれぞれの場所で神様との特別な対話を経験しているのかも知れません。」

 このコメントにも書きましたが、私たちは今回、この新型コロナウィルス感染症の危機的状況を通らされながら、置かれているそれぞれの場所で「神様との対話」をしてきたんじゃないかと思います。その中で、考えさせられたり、気づかされたり、学んだりしてきたことがあったのではないでしょうか。そして、信仰というのは、しばしばそのように育まれていくのだとも思います。信仰の歩みには、嬉しいことも、そうでないこと、色々なことがありますが、その一つ一つを通して、私たちは神様と対話し、その対話を通して、今まで気づかなかった色々なことに気づかされたり、大事なことを学んでいくということがあるのだと思うのです。

本日の御言葉でパウロは「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(3:12)と語りました。この御言葉を読みながら思うのは、パウロにとっての信仰の歩みは、全てが分かった、全て悟ってしまった、そのような歩みでは無くて、ある意味、生涯、手探りで追い求めていくような歩みだったということです。そんなパウロを想像しながら、パウロはきっと、他の誰よりもたくさん、神様との対話をしたんじゃないだろうかと思いました。福音宣教のために働きながら、たくさんの苦労をし、迷んだり、悩ったりしながら、その中で、パウロは手探りで、主の御心を求めながら、たくさんの神様との対話をしていたのではないかと思うのです。その対話を通して、パウロは自分のなすべきこと、立つべきところを確認しながら、主を追い求め、主の業に努めていったのだと思うのです。

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