「苦しみを共に」

フィリピ4:14-17

 本日の箇所には、パウロがフィリピ教会の人たちに対して、支援をしてくれたことに対する喜びの様子が記されています。パウロはここで、「贈り物を当てにして言うわけではありません」(4:17)と語っています。本当にそうだったんだろうなと思います。もちろん、贈り物をいただいたことは有難かったでしょうし、その贈り物で助かったということもあったでしょう。しかし、何より嬉しかったのは、そのようにパウロを覚えて、具体的に何度も物を送ってくれたフィリピ教会の人たちの思いだったのではないでしょうか。自分が覚えられているんだということ、祈られているんだ、フィリピ教会の人たちと繋がっているんだということを具体的に実感したのだと思います。本日の御言葉を読みながら、「それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。」(4:14)という言葉が心に留まりました。この言葉にパウロの思いが込められているのではないかと思います。パウロは贈り物などを通して、フィリピ教会の人たちと繋がっていることを噛みしめていたのだと思います。パウロはきっとそんなフィリピ教会の人たちとの繋がりに慰められ、励まされていたのではないでしょうか。

 本日は、この「苦しみを共にする」ということについて考えていきたいと思いました。ドイツの詩人ティートゲの言葉にこんな言葉があります。「喜びを人に分かつと喜びは二倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる」パウロやフィリピ教会の人たちもそういう思いを通らされていたのではないでしょうか。喜びも苦しみも共に分かちあいながら、そのことを通して、慰められ、励まされてきたのだと思います。そして、そういう分かちあいの経験を通して、喜びが二倍になった、苦しみが半分になった、そういう恵みだけではなく、そんなふうに分かち合うことができる友が与えられていることが嬉しい…。そのことが何よりかけがえのない財産となっている…。そういうことがあったのではないかと思います。いずれにしても、そんなふうに苦しみを共にしているパウロやフィリピ教会の人たちの姿に素晴らしいなと思います。そして、私たちもそういう繋がりを持つことができたらとも思います。しかしながら私自身のこれまでの色々な経験を振り返ってみる中で思うのは、実際の歩みでは中々、そういうことができないこともあったりするということです。私たちはしばしば不器用で、中々そういうことができないことがあるのではないかと思うのです。そんな中、本当に大切なのは祈ることだと思います。祈りの中で神様が私たちを導いてくださらなければ、私たちはとても共に歩むことはできないと思うのです。さらにその祈りによって、私たち自身の心が絶えず取り扱われ、整えられていかないといけないと思います。祈りながら、その上で丁寧にコミュニケーションを取りながら、共に一つ一つのことに向かっていく時に私たちはお互いに色々な思いを通らされながらも、共に一つの重荷を分かちあい、本日のパウロが語っているように「それにしても、あなたがたは、よく」と言えるような形で、歩んでいくことができるのだと思うのです。

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