本日のローズンゲンの御言葉です。

「弱者を虐げる者は造り主を嘲る。造り主を尊ぶ人は乏しい人を憐れむ。」箴言14:31

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」マタイ25:40

本日の箇所には、次のように書かれています。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

ここには人の子であるイエス・キリストが来られ、全ての人々を裁く様子が語られています。そんな中、主は、人々に対して、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(マタイ25:35-36)と言って労います。しかし、人々は「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」(マタイ25:37)と尋ねます。すると、主は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)と答えるのです。何というのでしょう。私はこれまで、ここで言われている「わたしが飢えていたとき」という言葉の意味について、抱いているイメージがありました。ギリシア神話を読むと、しばしば、神様が人間や動物に姿を変えて、人前に現れるという話があります。この聖書の箇所も、そんなイメージで受け止めていました。イエス様が、飢えている人だったり、のどが渇いている人だったり、旅をしている人に変身していて、人々から飲み物をもらった後に、「実はあれは仮の姿で、本当はわたしだったんだ」と言っているような、そういうイメージで、この言葉を受け取っていたのです。しかし、よくよく、この御言葉を読んでいる中で、これまでとは違うイメージで、この言葉が迫ってきたのです。どういうイメージかと言いますと、飢えている人がいる…。のどの渇きに苦しんでいる人がいる…。長旅をして疲れ果て、倒れそうになってしまう人がいる…。イエス様が、そのような人たちをご覧になり、その人たちを指して、その人たちのことを自分自身のように受け止めながら、「あれはわたしなんだ」とおっしゃっている…。そういうイメージです。私たちがしんどい時、苦しい時、大変な思いをさせられている時、そのしんどさや、大変さを、自分のことのように考えてくれている…。そんなふうに見つめてくれている…。そのことはどんなに慰めや励ましとなるのでしょう。本日の箇所でイエス様が「わたしが飢えていたとき」と語られた言葉を聞きながら、そんなメッセージが心に迫ってきました。

イエス様という方は、そんなふうに私たちを見つめてくださっているのだと思います。私たちが大変な時、苦しい時、悩みの中にある時、イエス様は、そんな私たちを見つめてくださっているのです。そして、私たちの苦しみや悩みを、まるでご自分のことのように受け止めてくださっているのです。それはどんなに励まされることでしょうか。今も色々としんどい思いを通られることがありますが、そこには常にそのようなイエス様の眼差しがあるのだということを覚えていたいと思います。また、イエス様は、もし私たちの周りの誰かが、私たちに対して手を差し伸べて助けてくれるなら、まるで御自分が助けられたかのように、その誰かに対して、「わたしを助けてくれてありがとう」と喜んでくださる…。そういうお方なのだと思います。私たちの信仰は、このイエス様の眼差しに支えられ、生かされていく歩みなのだと思います。そして、そのような眼差しに生かされながら、私たち自身もまた、悩んでいる人、傷んでいる人を見つめながら、「この人はわたしだ」という眼差しで目の前の人と関わっていく…。そんなことができたらと思うのです。

先日、インドのプリこどもの家の働きのために、古タオルと石鹸を送ってほしいとの声がありました。もしお持ちの方は教会に送ってください。

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