本日のローズンゲンの御言葉です。
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」イザヤ53:5
「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。」ヨハネ11:51-52
昨日の夜の祈祷会の前、家でテレビを見ていたところ、NHKで長崎原爆被害者の証言の番組が放送されていました。出演されていたのは、長崎教会のY姉でした。Y姉は75年前の当時のことをお話しされていました。Y姉は原爆投下当時、爆心地から数キロしか離れていない工場で仕事をしていたそうです。原爆で工場は一瞬にして破壊されました。Y姉のガラスが身体に突き刺さるなどの大けがをしたそうです。その後、とにかく瓦礫の中を外に抜け出しました。身体には焼けただれた場所もあり、皮膚がはがれたことを覚えておられるそうです。とにかく諫早の診療所まで行き、治療をしてもらいました。そこには多くの入院患者がいたそうです。その中には見た目外傷が全くない人たちも入院していました。しかし、そのような人たちが次々に亡くなっていきました。自分のほうがよほどひどい怪我をしているのに、何で自分が大丈夫で、他の人が亡くなってしまうんだろう…。そのことを不思議に思っている時に思い出したことがありました。工場から逃げていく途中、一人の人が自分に一枚のタオルを手渡してくれたことでした。自分はそのタオルで口を覆って、逃げてきたそうです。その時、原爆の放射能物質を吸わなくて済んだんじゃないだろうか…。それで助かったんじゃないかと思ったそうです。その時、自分を救ってくれたのは、あの時の一枚のタオルだったんだと思わされたということです。自分にタオルをくれた人がどんな人だったのかは分かりません。しかし、あのような状況の中で、他の人を気遣い、その人のために大切なタオルを渡してくれる…。そんなことができる人はきっと素晴らしい人だったんじゃないかと話していました。そして、自分もそういう人になりたいということが自分の生きる目標になりましたと話していました。そして、みんながきっとそういう思いになるなら、平和は実現するのだろうとも話していました。
本日の箇所には、次のように記されています。
「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
ここには、イエス・キリストが受けられた傷によって、わたしたちがいやされた様子が記されています。本日の御言葉を読みながら、昨日のY姉の話を思い出しました。まさに、Y姉がお話しくださった「一枚のタオル」の話は、イエス・キリストのあがないの御業を思い起こさせる話なのではないでしょうか。そんなことを思いながら、心に迫ってきたのは、Y姉がおっしゃっていた「自分もそういう人になりたい」という言葉でした。イエス・キリストにあがなわれ、傷をいやされ、救われた私たちは、そこから新しい歩みに踏み出すよう、招かれているんだなということを思いました。私たちが私たちのできる歩幅で、誰かを気遣い、思いやり、その人のために私たちができることをしていく…。そのような歩みへと招かれているのだと思います。そこに主にある平和は実現されていくのだと思います。