「これでいいんだ」
創世記14:13-24
創世記14:1-12には、カナンの地で起こった王たちの戦いが記されています。アブラムの甥のロトはその戦いに巻き込まれ、捕虜として連れていかれてしまいました。そのことを伝え聞いたアブラムは、ロトたちを救出するために戦いに出ていきました。本日の箇所を読みながら、まず思うのは「アブラムはよく、こんなふうにすぐにロトを救出に出ていったな」ということでした。アブラムにとって、ロトはかけがえのない身内だったかも知れません、しかし、これまでアブラムとロトの間には色々なことがありました。結果、この時アブラムとロトは別々のところで生きていたのです。ですから、割り切ったと見方をするなら「ロトのことなんかもう関係ない」と言うこともできたのではないかと思います。ですが、アブラムはロトのことを聞くと、すぐさまロトを助け出すために出かけていきました。そんなアブラムの姿に「すごいな」と思うのです。
本日の姿を思いながら、改めて、私たちの信仰の世界について考えさせられます。私たちが招かれている信仰の世界は、私と神様、私とイエス様だけの世界で終わるものではないと思います。もちろん基本となるのは、私と神様、私とイエス様の関係ですが、そんなふうにイエス様との繋がりが与えられていく中で、その私たちが私たちの周りにいる様々な人と繋がっていく世界なのだと思います。本日の箇所のアブラムの姿を思う時、そのように思うのです。実際、私たちは信仰の思いに促されて、私たちの周りの様々な人の痛みや悩みを覚え、できることをしていくということがあると思います。たとえば、先日、私たちの教会では、インドの『プリ子どもの家の働き』を覚えて、タオルやせっけんを送りました。コロナ感染症対策の支援のためです。先日インドから「タオルやせっけんが届き始めています」というメールが届きました。そんなふうに海を隔てた向こう側の人たちのことを覚えて、互いに繋がりあうことができる…。まさにそれが私たちの招かれている信仰なのだと思います。
本日の箇所には、アブラムとソドムの王とのエピソードも記されています。アブラムが、ロトを救うために戦いに出ていったことは、結果として、ソドムの王たちに味方をすることになりました。ソドムの王はアブラムのお陰で勝てたことを喜び、アブラムを歓迎して迎えました。ですが、アブラムはこの贈り物を受け取ろうとせず、ソドムの王に「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません。わたしは何も要りません。」と言ったのです。アブラムは信仰者として、どうしても譲れないものがあったのだと思います。
本日の箇所には、ロトとのエピソード、そして、ソドムの王とのエピソードが記されています。その両方のエピソードに色々なことを考えさせられますし、信仰者としての姿を思います。私たちも隣り人のことを思いやり、繋がることができたらと思いますし、時に自らの信仰に照らし合わせて、譲れないものがあるなら、違うことに関しては違うということをきちんと表していくことができたらと思うのです。