「あなたが左に行くなら」
創世記13:1-18
本日の箇所には、アブラムと甥のロトの間に起こったトラブルが記されています。エジプトを出て、ネゲブ地方に移り住んだ頃、アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きました。余りに二人の所有していた家畜が多くなってしまったからでした。このままでは争いを避けられないと感じたアブラムは、「ここで別れようではないか」(13:9)と提案しました。そして、ロトが左に行くなら、自分は右に、ロトが右に行くなら、自分は左に、そのように別々の道を行くことを提案したのです。
本日の箇所をアブラムの姿を見ながらまず思うのは、創世記12:10-20との対比です。創世記12:10-20には、エジプトに避難をした時のアブラムの姿が記されています。アブラムはエジプトで上手くやっていくために一つの作戦を考えました。それは妻のサライに「妹だ」と言ってもらうことでした。しかし、このことは裏目に出てしまいます。サライの美しさに魅了されたエジプトの人々によって、サライは王宮に召し抱えられてしまったのです。神様の御業によって何とかサライを取り戻すことができたのですが、アブラムは自ら立てた作戦は裏目に出てニッチもサッチもいかなくなってしまうのです。そのアブラムに比べてみますと、本日のアブラムは実に対照的です。エジプトでのアブラムは、その場の判断で上手くやろうとしているように思えるのですが、本日の箇所のアブラムはそうではありません。むしろその時の損得だけを見てしまうと「そんなんで本当にいいの?」というようにさえ思えてしまうような選び取りなのです。何でアブラムは変わったのでしょうか。何でこんな選び取りをしたのでしょう。それは何より神様を信頼していたからだと思います。創世記12:10-20の経験を通してアブラムは大きな失敗をしました。その時その時の状況の中で何とか上手くやろうとふるまいながら、結局は空回りをし、行き詰ってしまいました。ですがその経験を通して学んだのだとも思います。自分がそのように自分で必死にあれこれ考えても、自分の判断だったり、やっていることには限界があるということだったと思いますし、同時にそんな自分と神様が共にいてくださっている…。神様は自分の思いをはるかに超えて御業をなしてくださるということを身をもって学んだのだと思います。それゆえにアブラムは本日の箇所でこのような選び取りをしているのだと思うのです。
本日の箇所でアブラムは本当に大切な決定をロトに委ねました。しかし、この時アブラムはこのことを単にロトに委ねていたのではないのだと思います。ロトを見ながらその先に神様を見ていたのです。その神様に委ねていたのです。そして、それも創世記12:10-20での経験があったからだと思います。エジプトにおいて、アブラムはファラオを通してまでも御業をなしてくださる神様の姿を目の当たりにしました。神様はこんな形で御業をなしてくださるんだということを学んだと思います。その経験を通し、本日の箇所でもロトを通して働かれる神様を見ていたのだと思います。アブラムはその神様に信頼し、委ねているのだと思うのです。そのような中での選び取りなのだと思います。