「サライの苦悩」
創世記16:1-6
アブラムとサライの間には子どもがいませんでした。このことはアブラム、サライにとって、大きな悩みでした。神様に導かれ、こうしてカナンの地までやって来たのに、このまま跡継ぎの子どもがいなければ、家系が途絶えてしまうことになるからです。アブラムもサライも悩みに悩む中、サライがある提案をします。自分のところにはハガルという女奴隷がいるので、彼女との間に子どもをもうけてほしいという提案でした。
本日の箇所を読みながら、まず思うのは、サライはどんな思いでこんな提案をしたんだろうということです。サライにとって、こんな酷なことはなかったんじゃないでしょうか。自分の夫に対して「自分のところにいる女奴隷との間に子どもを作ってほしい」などということ本当は言いたくなかったのだと思うのです。ですが、そうする以外に方法が思いつかないという思いで提案したのだと思います。それくらい、八方ふさがりで考えられることがない中、悩みながら、苦しみながら、この提案をしたのではないかと思うのです。
アブラムはサライの提案を受け入れます。そして、アブラムとハガルとの間に子どもが与えられるのです。ここまではサライの考えた通りでした。しかし、この後、状況はサライの思いとは違う方向に向かってしまいます。ハガルはアブラムとの間に子どもができたことを知ると、突然、態度を変えて、サライのことを軽んじるようになっていったのです。このことはサライにとって本当に耐え難い思いことだったと思います。「どんな思いでここまでやって来たのか。それなのに、こんな仕打ちはない」そういう思いだったのではないかと思います。サライはその思いをアブラムにぶつけます。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。」(16:5) サライは切実な思いでこの言葉を語っているのだと思います。そんなサライの気持ちが痛いほどよく分かります。ですが、はたしてそうなんだろうかということも考えたいと思います。はたして、こうなったのは、アブラムのせいだったのでしょうか。サライ自身のせいでもあったのだと思います。ただそれよりも思うのは、この時、サライは、アブラムだけを見て、そのアブラムに自分のやり切れない思いをひたすらにぶつけているのですが、サライが本当にここで見るべきだったのは、そうだったんでしょうか。本当に見上げるべき方、自分の思いをぶつけるべき方は、神様だったのではないでしょうか。
本日の箇所を読みながら、一つの御言葉が心に迫ってきました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)
サライはこの御言葉にあるように自分の抱えている思い煩いを神様に打ち明けていくことができたらよかったんじゃないかと思います。その時、一つ一つのことがもっと別の形で整えられていったのではないでしょうか。実際、サライはその後、自分の思いや考えを全く超えた形で、神様の取り扱いを経験し、主の慰めと平安に生かされていくことになるのです。