「契約のしるし」

創世記17:3-14

本日の箇所には「割礼」について記されています。神様はアブラハムとの契約のしるしとして、割礼を受けるようにと言われました。アブラハムはこのことを受けて、アブラハムの家にいる男性は、家で生まれた奴隷も外国人から買い取った奴隷も皆、共に割礼を受けることになりました。私たちは現在、割礼を受けるということはありません。ですが、改めて、神様が本日の箇所で、アブラハムに割礼を求められている意味について、考えていく時、大事なメッセージを聞くことができるのだと思います。たとえば新約聖書には「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼(バプテスマ)によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活させられたのです。」(コロサイ2:11-12)と記されています。また「彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。」(フィリピ3:3)という言葉もあります。この二つの御言葉を読む時、聞こえてくるメッセージがあるように思います。割礼とは何か…。それはコロサイ書の御言葉で言うなら、肉を脱ぎ捨てることでした。そして、フィリピ書の御言葉で言うなら、「キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない」ことだったのです。これらの言葉を読む時、私たちが儀式として割礼を経験しなかったとしても、「割礼」がさし示すものは、私たちの信仰において大切な意味を持っているんだということを思うのです。私たちは自らの力や肉を誇りにしたり、依り頼んで生きるのではなく、私たちにもキリストを誇りとし、キリストに依り頼んで生きる…。そのような生き方へと招いているのが、「割礼」の意味するところなのです。

新約聖書が語っている「割礼」についてのメッセージがもう一つあります。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラテヤ5:6)ここには、私たちにとって、割礼を受けている、受けていないということより大切なことがあるんだと記されています。それは、キリスト・イエスに結ばれている者として、愛の実践を伴う信仰に生かされていくことなのだというのです。このことも大切なメッセージだと思います。イエス・キリストに出会い、イエス・キリストを信頼し、誇りとし、より頼んで生きる歩みに生かされている私たちは、さらにそのキリストに出会った者として、キリストの愛に押し出され、私たち自身が愛の実践に生かされていくんだと言われているのです。それが私たちの招かれている信仰の歩みなんだと言われているのです。

 そして、まさにここに私たちが招かれている豊かな神様の祝福の世界があるのではないかと思います。私たちは自分自身の色々な思いから解放され、キリストに信頼し、誇りとし、より頼んで生きる歩みに生かされていきます。そして、さらにそのような私たちがキリストの愛に押し出されながら、私たち自身が愛の実践を伴う信仰に生かされていくのです。それが「割礼」を通して、私たちが招かれている神の祝福の世界だと思うのです。

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