「主があなたの悩みをお聞きになられた」

創世記16:7-16

本日の御言葉を読みながら、まず考えたいことは、ハガルについてです。ハガルの視点から、創世記16:1-16に記されている一連の出来事を見ていく時、どうでしょう。サライからアブラムとの間に子どもをもうけるように言われたり、サライから辛く当たられたり本当に可哀そうだなと思ったりします。ですが、その一方で思うことがあります。それはハガルにしても、もう少し考えて行動しても良かったんじゃないかなということです。ハガルの行動は、ある意味、とても「自然」で「素直な」行動です。ですが、別の見方をすれば、「思慮の足りない」行動にも思えるかも知れないと思います。アブラムとの間に子どもが与えられると、つい調子に乗って、サライを軽んじてしまったり、その後、サライから辛く当たられると、逃げ出してしまったりしている姿を思う時に、そうするハガルの気持ちはよく分かるのですが、「サライに対してそういうことをすれば、当然、そういう結果になってしまうよ。もう少し考えて行動しても良かったんじゃないかなぁ」と思ったりするのです。そして、そんなハガルの姿を思う時、そこに「奴隷」としてのハガルの姿があるのかも知れないと思ったりします。「奴隷」については色々なことが言えますが、一つ思うのは「奴隷」というのは自分の考えだったり、意思だったり、そういうことが尊重されない立場だということです。ハガルは、おそらく、これまでの人生、そんなふうに生きてきたのではないでしょうか。「奴隷」として、主人に言われたことを言われるがままにしてきたし、そうするしかなかったのだと思います。ですが、それというのは裏返してみれば、自分自身できちんと一つ一つの物事を考え、見極め、自分の意思や決断で判断していくようなことはなかったということでもあるんだと思うのです。本日のハガルの行動を見ながら、そういうハガルのこれまでの歩みが背景としてあるんじゃないかと思うのです。

何でそんな話をするかと言いますと、本日の箇所で心に留まる御言葉があるからです。16:12には「彼は野生のろばのような人になる。」(16:12) と語られています。ここで神様はハガルから生まれる子どもについて「彼は野生のろばのような人になる」と言われたわけですが、この言葉はハガルにも問われているのだと思います。聖書には「分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。」(詩篇32:9)という言葉がありますが、訓練を受けていない野生の動物たちがどういう状態なのかと言えば、分別もなく、周りがくつわと手綱で動きを抑えねば手に負えない…。そういうイメージで語られているのです。そういうところが、ハガルの問題としてあったんじゃないでしょうか。

そして、そんなハガルを思う時に、「自分というものを持っていなかったんじゃないか」と思ったりします。しかし、そんなハガルを思う時に、本日の御言葉で何より心に迫って来るのは、そんなハガルに神様が出会ってくださったということです。そして、ハガルを取り扱ってくださいました。その神様との出会いによって、ハガルは「野生のろばのような人」から「分別をもって自分の意思で行動する人」へ変えられたのです。

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