「悲しみのその先に」
マタイ2:13-23
本日の箇所には、イエス様がお生まれになった後の出来事が記されています。マタイ2:16-18には、ヘロデがベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子を皆殺しにしたということが記されています。本当に心を痛める記述です。この記述について、以前、ある方がこんなことを言っていました。
「マタイ2:16-18に記されているヘロデの幼児虐殺の記述を読む時、本当に胸が痛くなる。その中で思うのは、何で神様はこんなことを許されたんだろうかということだ。聖書には『預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した』と書かれているけれど、こういう言い方をされると、まるでこの大虐殺が、神様がそうされたかのように思えてしまう。そんな中、神様なんでこんなことを許されたのだろうと思ってしまう。この子どもたちは、イエス様のために犠牲になったのだろうか。」
そんなことを言っていたのですが、そのことを受けて、皆で話し合う機会がありました。色々な意見が出されたのですが、その中で話し合ったのは「この虐殺を行なったのはヘロデですから、それを神様がしたかのように考えるのはやっぱりおかしいんじゃないかな」ということでした。「この子たちがイエス様のために犠牲になったと考えることも違うんじゃないかな」ということを話し合いながら、この箇所を「サバイバー」という視点でこの記述を読み取ることはできないだろうかということでした。
「サバイバー」とは「生き残り、生存者、遺族」という意味です。この子どもたちがイエス様の犠牲になったというふうに読み取るのではなく、むしろ、イエス様がこのような残虐な事件の中で生き残ったサバイバーという視点で読んでいくことができないだろうかというのです。よくサバイバーの人たちに関することとして、サバイバーズ・ギルト(Survivor’s guilt)の問題が取り上げられることがあります。サバイバーズ・ギルトというのは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のことです。自分は何も悪くもない、自分も犠牲者であるはずなのに、自分が生き残ったことが申し訳ないと考えてしまうのです。イエス様御自身もそのようなサバイバーとしての痛みを通られたのではないだろうか…。そのことが私たちに語りかけるメッセージがあるのではないかと話しあいました。私はそれまでそんなふうにこの箇所を読むことがなかったので、その時の話し合いが今も心に残っています。
今年も色々なことがありました。悲しいこと、痛みの出来事もありました。そんな中、色々な悲しみや痛みを、自分だけで抱えこんできたようなこともあったかも知れません。そんな中、本日の箇所を読みながら心に迫ってくるのは、イエス様はそのような悲しみ、痛みも知っていてくださっているんだなということです。誰からも顧みられることもなく、闇に埋もれてしまっていくような悲しみも、その人にしか分からないような孤独や痛みも、イエス様は知っていてくださる…。分かってくださる…。イエス様御自身がまさにそのような悲しみや孤独、痛みを通ってこられたんだということを思うのです。このことは何よりの励ましと慰めなのではないでしょうか。