創世記18:16-33

「ソドムのとりなし」

本日の箇所でアブラハムは、神様に対しソドムの町への裁きを思いとどまるように訴えました。「たとえソドムの町の人々の罪が重かったとしても、そこに正しい人がいたとするとするなら、その正しい人たちも神様は一緒に滅ぼしてしまわれるのですか」と訴えたのです。神様はアブラハムの訴えに折れるかのように、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(18:26)と約束してくださいました。アブラハムはその後も神様に訴え、ついに神様はソドムの町に正しい人が十人いるなら、「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」(18:32)と約束してくださったのでした。

本日の箇所を読みながら、まず思ったことがあります。それは、アブラハムと神様がこんなやりとりをしているのを、ソドムの町の人たちは全く知らなかっただろうなということでした。創世記14章には、アブラハムとソドムの町の人々との出来事が記されています。ある時、カナンの地一帯で争いが起こりました。ソドムの町の人々は、その争いに敗れて、町の財産を奪われ、町の人たちも捕虜として連れていかれてしまいました。そんな中、アブラハムがその戦いに参戦し、ソドムの町の人々を救い出してくださるのです。創世記14章には、そんな記述が記されています。そして、その後、そのようなアブラハムの働きを、ソドムの王が感謝して、アブラハムに贈り物を渡そうとしたことが記されています。しかし、アブラハムはこの贈り物を受け取ろうとしませんでした(創世記14:23)。その出来事に象徴されますように、アブラハムとソドムの町との関係は決して良いものだったとは言えなかったと思います。ソドムの町の人々は、アブラハムのことをよく思ってはいなかったと思いますし、自分たちの側としても、アブラハムが自分たちのことをよく思ってはいない…。そんなふうに考えていたのだと思います。そんなソドムの町の人たちにしてみれば、こんなふうにアブラハムが自分のために祈ってくれているなんて、思いもしなかったろうと思いました。

 そんなソドムの町の人たちが、もしアブラハムの思いを知ることができたら、どうだったでしょう。ソドムの町の人たちが、アブラハムの思いを知り、自分たちが覚えられ、知らないところで祈られ、その祈りによって自分たちが支えられ、守られているんだということを知ることができたら、そこで与えられる思いがあり、そのことによって変えられていったものもあったんじゃないかと思うのです。もしかしたら、自分たちのことだけを考えて、自分勝手な歩みに突き進むような歩みから少しは変えられていったかも知れないと思います。

 そして、改めて自分自身のことを考えさせられました。私たちは、私たちが祈られていることを知っているでしょうか。私たちが知らないところで覚えられ、祈られ、その祈りによって支えられ、守られていることを知っているでしょうか。私はクリスチャンで祈られていない人は一人もいないと思っています。私たちの歩みにはその背後に私たちの歩みに先立つ誰かしらの祈りがあるのです。その祈りによって、私たちは支えられ、導かれながら、こうして歩むことができているのだと思うのです。そのことを改めて考えさせられました。

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