「ソドムの町の門の前に座る人」
創世記19:1-14
「しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです」(Ⅱペテロ2:7-8)。
二人の御使いがソドムに着いた時、「ロトはソドムの門の所に座っていた」(19:1)と記されています。何で、こんなところに座っていたのでしょうか。Ⅱペテロ2:7-8では、ロトがソドムの町の「不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた」と書かれていますから、この時も、ロトはソドムでの日々に心を痛め、門の前に座りこんでいたのかも知れません。ロトは町にいたくなかったのでしょうか。居場所もなかったのでしょうか。いずれにしましても、そんなロトの姿に少なからず同情の思いが沸き上がってきます。ただ一方で思うことがあります。ロトにもすべきこともあったんじゃないでしょうか。Ⅱペテロ2:7-8には、ソドムの町の姿に心を痛めているロトに対して、ロトが正しい人だったからと繰り返し語っています。ですが、そんなロトだからこそすべきこと、できることがあったのではないでしょうか。そんなロトの姿を思いながら、心に迫って来る御言葉があります。それは、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)という御言葉です。本日のロトの姿というのは、まさにマタイ5:13が語る「塩気のない塩」の姿なのではないかと思います。厳しい言葉かも知れません。しかし、このことは私たち自身にも問われていることとして、そんなふうに思うのです。ただ、そんな「塩気のない塩」という言葉について考える時、もう一つ思うことがあります。それは、「神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました」(Ⅱペテロ2:7)との御言葉にあるように、ソドムの町の人々の振る舞いに心痛め、苦しみ、悩んでいたロトの思いを神様は知っていてくださったということのです。そして、ロトのことを助け出してくださいました。「塩気のない塩」ということについて考える時、このことも大切なことなのだと思います。私たちがもしこの地にあって、「塩」としての役割を果たすことができるとするなら、それは私たちの力ではないのだと思います。神様がそうさせてくださるのです。その神様にしっかりと繋がっていくこと、後ろの戸を閉ざして自分だけで抱え込まないこと…。そのことが大事なのだと思うのです。
本日の箇所を読みながら、改めて、ロトの姿が心に迫ってきました。今のこの時代にロトの姿が問うていることがあるのではないかと思います。この時代の中、私たちは託されている「地の塩」としての役割があるのではないかと思うのです。その役割というのは、きっと自分たちの力で何とかしようとするような役割ではありません。何より、私たちの悩みもわずらいも、すでに主御自身が知っていてくださっていることに信頼しながら、その主を見上げ、主により頼み、努めていくこと、その時、主は私たちを通して働いてくださるのです。