「主は憐れんで」

創世記19:15-29

創世記19:15には「夜が明けるころ」と書かれています。19:12には、二人の御使いたちがロトに対して、「あなたの身内の人がこの町にいますか。あなたの婿や息子や娘などを皆連れてここから逃げなさい」(19:12)と語ったことが記されています。御使いたちがこのように語ったのは、ソドムの町の人たちがロトの家を襲った直後ですから、「まだ床に就かないうち」(19:4)ということになります。夜の8-10時くらいでしょうか。それがいつの間にか、「夜が明ける頃」になってしまっていたのです。何でこんなに時間が経ってしまっているのでしょうか。おそらく「逃げなさい」と言われて、中々そうすることができなかったからではないかと思います。自分たちの家が町の人たちに襲われ、ロトにしてみれば、「ここにはいては駄目だ」ということは、よくよく分かっていたのではないかと思います。ですがいざソドムの町から出ていくとなりますと、どうしてもためらってしまっていたのです。

そんなロトの姿が心に迫ってきます。原発事故の時のことを思い出すからです。原発事故が起こった当時、避難すべきか、どうかということで本当に悩みました。事故の状況は刻一刻と悪くなっているような状況で、「危ない」ということをひしひしと感じていました。ですが、実際に避難をするかどうかということを考えます時に、その判断は本当に難しいものでした。それこそ、「どこに逃げればいいのか」「避難したところでそれからどうすればいいのか」ということを考えさせられましたし、津波被害と違って「避難すべきか」ということに対しても色々な意見がありました。「避難すべきだ」という人、「いや留まるべきだ」という人がいたのです。その判断をするのは本当に難しい状況でした。その時のことを思い出す時、本日のロトの姿が心に迫ってきます。ロトのことにしても、ロトの家族たちのことにしても、他人ごとじゃないと思ってしまうのです。本日の箇所には、そんなふうに迫りくる危機の中、「逃げるように」と呼びかけられているロトやロトの家族のことが記されています。しかし、彼らは御使いからの警告をまじめに受け取ろうとしなかったり、聞いてもすぐに答えられず、ためらったり、できませんと弱音を吐いたりしていました。私は、それらの姿を見ながら、情けないと思いながら、正直、自分もそうだったなと思ってしまいます。

そんなことをあれこれと考えながら、何より心に留まるのが、19:16です。19:16には、最後までためらいながら、一歩を踏み出しきれないでいたロトを、主が憐れんでくださり、御使いたちにロトや妻、そして、二人の娘の手をとらせて、町の外へ避難させてくださったことが記されています。何よりこのメッセージが心に留まります。自分自身のことを思う時、本日の箇所のロトが自分も同じに思えます。

ですが、その中で何より思わされるのは、主はそんな私たちをも憐れんでくださるんだということです。本日の箇所で、ロトを憐れんでくださったように、私たちをも憐れんでくださっているのです。そして、私たちの手をとって導いてくださる…。実際、震災から今日までの歩みを振り返って考える時、ただただ主の憐れみと導きで、これまで来ることができたということを痛感させられるのです。

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