「よろこびに包まれた人」
創世記21:1-8
本日の箇所には「主は、約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われた」(21:1)とあります。ここには「約束されたとおり」、「語られたとおり」と、同じような言い方が繰り返されています。聖書の中で、このような繰り返しがなされているのは「強調」を表しています。何故、こんなふうに強調しているのでしょう。強調しないと受け止められないような出来事だったからだと思います。21:1以降で語られているのは、アブラハムの息子のイサクが誕生したという出来事です。21:5には「息子イサクが生まれたとき、アブラハムは百歳であった」(21:5)と書かれています。妻のサラは十歳年下でしたから、サラはこの時、九十歳でした。そのような二人が子どもを設ける…。「本当なの?」と思ってしまうような出来事だったのではないでしょうか。それゆえ、ここでは繰り返し、神様が語られたこと、約束されたことが「その通りになったんだ」「本当だったんだ」と繰り返されてのだと思います。
ですが、この御言葉で語ろうとしていることは、それだけではないのだとも思います。高齢の二人が子どもをもうけたということが信じられないということだけではなく、別のことも含まれているのだと思います。21:1の御言葉を注意深く読んでいくと、ここで聖書が繰り返し語っていることは、「サラを顧み」「サラのために」ということでした。主が約束され、その通りに実行されていったこと、それはサラを顧みることでした。サラのために神様がなされたことでもありました。このことも、本当なの?信じられない?と思ってしまうような出来事だったのだと思います。少なくてもサラにとってはそうだったではないでしょうか。聖書には、サラについての様々なことが記されています。サラはこれまでずっとアブラハムと行動を共にしてきました。馴染み深い故郷の地を離れて、カナンという場所にやってきて、本当に大変な経験をたくさんしてきたのだと思います。それにも関わらず、神様への信仰を拠り所に歩んできました。ですが、肝心の神様の約束が中々成就しないままでした。アブラハムの家には一人の後継ぎさえいないような状況だったのです。そんな中、サラは悩みながら、夫のアブラハムに女奴隷ハガルを差し出すことを申し出ます。この申し出により、ハガルはアブラハムの子を身ごもるのですが、サラはその様子を複雑な心境で見つめていたのだと思います。何とも言えない寂しい思いだったのではないでしょうか。神様は本当に自分のことを顧みてくださっているのだろうか…。神様は自分のことを取り扱ってくださっているのだろうか…。そのような思いだったのだと思います。そのように、サラはこれまで、様々な思いを通らされてきました。そのサラについて12:1では語りかけられているのです。神様が語られたこと、約束されたことがその通りになったんだ、本当だったんだ、神様は約束通り、ちゃんとサラを顧みてくださっていたんだ…。サラのために御業をなしてくださったんだ…。サラはそのことの生きた証しを経験していったのです。このことは私たちにとって大きな慰めであり、励ましなのだと思います。主は私たち一人一人の歩みにも同様に関わり、顧みてくださるのだと思うのです。