「主は備えてくださる」

創世記22:13-24

本日の箇所は、先週からの続きです。神様がアブラハムに対して、「息子イサクを献げなさい」と言われました。アブラハムはこの神様の命令に従って、イサクを連れてモリヤの山に向かいました。そして、イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せ、神に献げるために屠ろうとしました。すると、そこに、天からの御使いが現れ、「その子に手を下すな」(22:12)と言われました。そして、寸前のところでイサクを屠らずに済んだのです。先週もお話ししましたが、私はアブラハムの信仰というものを考える時、その信仰の根っこにあったものは、ごくごくシンプルなものだったと思います。「約束してくださったのは真実な方なんだ」ということを信じる信仰がシンプルにあったのです。そんなアブラハムに神様は応えてくださいました。アブラハムは天からの御使いに呼び止められ、何とかイサクを献げないで済んだのです。しかしながら、ここで問題が生じます。神様に献げ物をするために、この山にまでやってきたのに、肝心な献げものが無くなってしまったのです。しかし、神様はすでにこの問題をも解決してくださいました。アブラハムが目を凝らして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられているのが見えました。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのです。明らかにこの雄羊は自分たちのために神様が備えていてくださったものでした。このため、「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた」(22:14)というのです。

本日の箇所を読みながら、つくづく、神様はアブラハムのことを誰よりもご存じで、アブラハムの必要も全てをご存じなんだなと思います。そして、アブラハムがあれもこれもと心配するよりも先に、全てのものを備えてくださって、アブラハムの歩みを導いて下さっているんだなと思うのです。私たちの信じる神様は、このような方です。私たちがこの神様に出会うということ、本当に大きなことなのだと思います。そして、この神様に出会う時、私たちは何より、私たち自身の重荷を下ろすことができるのだと思います。そして、その神様との出会いの中で、私たちは私たち自身の色々なことが整えられながら、私たちが本来、何に対して心を配るべきか…。そのことが整理されていくのだと思います。

22:20-24にはその後の出来事が記されています。アブラハムがモリヤの山から帰ってくると、アブラハムに知らせが届きました。それはハランに住んでいたアブラハムの親族からの知らせでした。「アブラハムの兄弟ナホルが、ミルカとの間に子どもを生みました」という知らせでした。アブラハムは知らせを聞きながら、「そうかぁ。ナホルにもたくさんの子どもが生まれたのかぁ。よかったなぁ」という思いだったのかも知れません。しかし、この知らせは、それだけを伝える知らせではありませんでした。ナホルから生まれたべトエルはやがて、リベカを生むことになったというのです。このリベカが将来、イサクの妻となっていくのです。まさにここには、アブラハムの思いを越えた主の備えがすでに起こされている様子が記されているのです。

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