「サラのために悲しみ泣いた」
創世記23:1-3
本日の箇所に記されているのは、アブラハムの妻サラが亡くなったという記述です。サラが亡くなった後、アブラハムは、サラのなきがらを目の前にしながら、嘆き悲しみました。私はこの箇所を読む時に、思い出す一枚の絵があります。マルク・シャガールが描いた『サラの死を嘆くアブラハム』という絵です。シャガールの絵の中では、余り知られていない絵かも知れません。私は以前、画集でこの絵を見つけました。この絵を最初に見た時、「シャガールは何でこんな絵を描いたんだろう」と思いました。サラのなきがらの前に嘆き悲しんでいるアブラハムを描いた絵を、私はこの他に見たことがありません。ですので、「非常に珍しい絵だな」という思いながら見ていました。そのシャガールの絵の影響から本日の聖書の箇所が不思議と心に残るようになりました。そして、色々なことを考えるうちに、この箇所に込められたメッセージについて考えさせられるようになりました。何というのでしょう。何より思うのは、アブラハムにとって、サラの死というのは、それほどに悲しい経験だったんだなということです。本日の箇所の直前の創世記22章には、アブラハムがイサクを献げた記述が記されています。アブラハムは、神様から「息子イサクを献げなさい」と言われて、それに従いました。そこではアブラハムは何も言っていません。そんな姿を見る時、何というのでしょう。いい意味で言うなら、どんなことがあったとしても、冷静沈着で動じないような…。別の見方をするなら、少し冷たくもあるような…。そんなイメージを抱く人もいたりするんじゃないかと思うのです。ですが、本日の箇所のアブラハムというのは、それとはだいぶ違う印象を受けます。妻の死を前にして、人目もはばからずに嘆き悲しむ…。私たちの多くがそうであるように、アブラハムもそうだったんだなと思うのです。そして、そんなアブラハムの姿から色々なことを教えられるんじゃないかと思うのです。
私たちにとって「立派な信仰者」とはどんな姿でしょうか。どんな時にも揺るがず、動揺もしない人…。そんな人物像を想像するでしょうか。そんな人物像を想像しながら、自分たちの現実がそれとは余りにかけ離れていることに落ち込んだり、自分が何て、信仰が足りない者であるかのように思ってしまうようなことがあるかも知れないと思います。でも、私はそうではないんじゃないかと思います。信仰の父と言われるようなアブラハムも、人目もはばからずに泣くこともあった…。悲しい時には悲しいし、しんどい時にはしんどいと思う…。アブラハムもそうだったんだなと思うのです。それでいいんだなと思うのです。大事なことは、そのような中にあって、神様を見上げていくことではないでしょうか。むしろ、そういう中でこそ、私たちは神様に出会っていくことができたらと思うのです。他の誰にも分かってもらえないような思いであったとしても、神様だけは知っていてくださるし、神様だけは全てを受け止めてくださる…。そのことに信頼しながら、私たちは、私たちのありのままの思いで、神様に出会うのだと思うのです。そのような出会いをすることができるということが私たちにとって慰めなのだと思いますし、励ましなのだと思います。