「マクペラの洞穴」
創世記23:4-24
本日の箇所には、アブラハムがヘトの人々から土地を購入し、サラを葬った様子が記されています。この箇所を読みながら何より思うことがあります。それはアブラハムにとって、サラの死の出来事はつらく、悲しい出来事だったのだと思いますが、この出来事を通して、アブラハムは「一体、自分にとって何が大切なのか」ということを再確認させられていったのではないかということです。
アブラハムはハランの地に住んでいた時、神様から「土地を与える」と言われ、このカナンにやって来ました。しかし、実際には一歩の幅の土地も与えられていませんでした。アブラハムにしてみれば「自分たちは何のためにここまでやって来たの?」と思ってしまうような状況だったのではないでしょうか。ですが、土地こそ与えられませんでしたが、カナンの地での生活はそれなりに満たされてもいたのだとも思います。羊もたくさん与えられ、僕たちも与えられていたようですから、そう言った意味では「これはこれでいいかな」と思うようなところもあったのではないかと思います。そんなことを思います時に、カナンでの生活というのは、アブラハムにとってみれば、自分たちが何のためにここまでやって来て、こんなふうに過ごしているのか…。そのことが分からなくなってしまうようなところもあったのではないでしょうか。ですが、そのような中、サラの死の出来事を通して、マクペラの洞穴を与えられながら、自分たちがこのカナンの地にやって来たことの意味を改めて確認していったのではないかと思うのです。実際、本日の箇所でアブラハムが購入したマクペラの洞穴は、アブラハムを始め、アブラハムの息子たちにとっての希望の象徴となっていきます。今はまだ、神様の約束は果たされていないかも知れませんし、土地も与えられていないかも知れませんが、神様はこのマクペラの洞穴から始めて、必ずや約束を果たしてくださる…。そのように神様の約束を望み続ける希望の象徴となっていったのです。
本日の箇所を読みながら、改めて、色々なことを考えさせられました。私は自分自身のことを思う時、本当に弱く、もろくて、すぐに肝心なことを見失って、迷ってしまうことがあるなと思います。日々の歩みの中で、色々なことがあると、すぐにそのことに流されてしまって、自分にとって、大切なことが何なのか、分からなくなってしまう・・・。分かっていたとしても、どこかそういう思いがぼやけてしまう・・・。そんな自分がいるなと思ってしまうのです。そんな中、本日のアブラハムの姿から、本当に教えられますし、励まされる思いにもさせられます。私たちが、信仰者として生きているにあたって、何が大切なのか…。何のため、何を目指して歩んでいるのか…。そのことの原点を、本日の箇所から改めて教えられる思いがしますし、アブラハムはその希望の信仰に生かされる中で、サラを亡くした悲しみの中から立ち上がることができたんだなと思いながら、励まされるのです。