「連れてくることができるようにしてくださる」
創世記24:1-10
アブラハムは、ある時、家の全財産を任せ、全幅の信頼を寄せている僕を呼び寄せ、イサクのための結婚相手を探しに行くようと命じました。この時、アブラハムは、イサクの結婚相手として、条件を設けました。その条件が、「カナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように」(24:4)というものでした。まずこのことについて考えてみたいと思います。これまでアブラハムたちは、このカナンの地で、長い間、住んでいました。しかし、アブラハムたちは、この土地の中で、未だ自分たちの土地さえ持つことができないような寄留者、よそ者でした。そんなアブラハムたちにとって、この地でうまくやるための一番手っ取り早い方法というのは、この地の有力者の娘と、自分の息子を結婚させることだったのではないかと思うのです。そうすれば、この土地にすぐに馴染めるのではないかと思いますし、場合によったらその有力者の土地を相続することもできたかも知れません。そうなれば、この地で暮らしていくにあたって、将来のことも安心できたのではないかと思うのです。その本には、それがこの世の知恵というか、方法なんじゃないかと書かれていました。しかし、アブラハムはそうしませんでした。これは決して当たり前のことではないし、アブラハムがこの世の知恵だったり、この世の方法とは全く違う基準で生きていたんだというのです。
また、ハランで結婚相手を見つけるということが条件にあがったとしても、もし、アブラハムが、イサクがいい人を見つけて幸せになってほしいというふうにだけ考えていたらとしたら、いっそのこと、家族でハランに移って、ハランで結婚相手と過ごすということもあり得たのではないでしょうか。しかし、アブラハムはこのことに対しても、断固否定して「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。」(24:6)と言いました。アブラハムは、あくまで、このカナンの地で生きることにこだわったのです。
これらの言葉を読みながら、色々なことを考えさせられます。何というのでしょう。イサクの結婚相手をハランから連れてくることで、アブラハムたちは、カナンの地においてはなお一層、よそ者となってしまうかも知れませんでした。しかし、アブラハムからしてみれば、イサクの将来が「これなら大丈夫」と思えるのは、イサクがカナンの有力者の娘と結婚し、この地での安定した立場を確立することではありませんでした。この世の知恵では、そのほうが安定しているように見えたかも知れません。しかし、アブラハムから見たら、それで「これなら大丈夫」とは思えなかったのです。アブラハムにとって、イサクたちの将来が本当の意味で、「これなら大丈夫」と思えること…。それは、何より、イサクたちが神様にしっかりと繋がってくれることでした。神様から自分たちに与えられた役割や務めを忘れずに、神様に繋がりながら、神様を見上げ、神様に信頼して歩んでいくこと…。そんな彼らを神様が導き、守り、支えてくれること…。そのことが何より「これなら大丈夫」と思えることだったのです。