「井戸の傍らで祈った」
創世記24:11-27
本日の箇所は、先週からの続きです。アブラハムは晩年、息子イサクの結婚相手を探そうとしました。そこで、アブラハムが最も信頼していた僕にお願いして、イサクの結婚相手を見つけてきてほしいとお願いしたのです。この時、アブラハムは、イサクの結婚相手として二つの条件を語りました。一つは、イサクの結婚相手を、カナンの地ではなく、アブラハムたちがもともと住んでいたハランの地から見つけてくるということでした。そして、もう一つはイサクをハランに生かせるのではなく、必ず相手をハランに連れて来ることでした。こうして、僕はアブラハムに遣わされて、アブラハムの故郷であるハランの地にやって来ました。この時、僕はどんな思いだったのでしょう。アブラハムからイサクの結婚相手を見つけるようにお願いされました。しかし、僕には何一つあてがあるわけではありませんでした。とりあえず、言われた通りに、ハランまでやって来たけれど、「さて、これからどうしよう」というところだったのではないでしょうか。どこにそんな相手がいるのかということや、どうやってその相手を見つければいいのかということ、加えて、その人をどうやって説得し、アブラハムやイサクが待つカナンの地まで連れて来ればいいのかということなど、何もかもが「どうすればいいんだろう」という状況だったと思います。僕が出発する際、アブラハムは僕に対して、「神様が、御使いを遣わして、息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださるんだ。」(24:7)と語っていました。しかし、この言葉も僕はどんなふうに聞いていたのでしょう。心のどこかで「本当だろうか」というような思いはなかったでしょうか。いずれにしても、ハランまで来たけれど、これからどうしようというような状況だったと思います。そのような状況の中の僕がまずしたことが祈ることでした(24:11-14)。この僕の姿を見ながら思うのは、「ああ、こんな時、祈ることができるんだな、祈っていいんだな」ということです。イサクの結婚相手を探す…。それはアブラハムの家の今後を大きく左右するような、大変な務めだったのだと思います。しかも、アブラハムは僕を遣わす際に、自分の腿の間に手を入れてまで僕に誓わしていました。これは当時、相当な誓いを表しています。僕としては自分に託された働きに大きさ、重さをひしひしと感じていたのだと思います。しかし、どうしていったらいいか分からず、お手上げだったと思います。そんな中、まず祈ったのです。私たちはこんな時に祈ることができるんだなと思います。
僕がそのように祈ったところ、そこにリベカが現れました。僕は「彼女こそ、神様がイサクの結婚相手として自分に出会わせてくださった方だ」と確信し、「ひざまずいて主を伏し拝」 (24:26)んだと記されています。そのような僕の姿を見ながら思うことがあります。それは、この僕は祈っていたからこそ、この一連の出来事が神様の業だと知ることができたんじゃないかということです。そんな中、改めて思いますのは、「祈る人には神様の業が見える」ということがあるんじゃないだろうかということです。祈っているからこそ、見える神様の取り扱いがある…。御業がある…。そういうことがあるのではないかと思います。