「このことは主の御意思ですから」
創世記24:28-51
本日の箇所は、先週からの続きです。アブラハムの僕はハランの町でリベカに弟子、リベカこそがイサクの結婚相手として、神様が与えてくださった人だと確信していました。しかしながら、そこから乗り越えなければならない様々なハードルがありました。まずリベカにこのことを受け止めてもらわなければなりませんでしたし、さらにリベカの家族にも理解してもらわななければなりませんでした。よくよく考えたら無茶な話かも知れません。遠くから突然、旅人がやって来て、「娘さんを結婚相手として連れていきたい」と言うのです。相手は自分たちの親戚だったかも知れませんが、アブラハムはハランを旅立ってから、何十年もの年月が経っていました。リベカはもちろん、ラバンもベトエルもアブラハムに会ったこともありませんでした。親戚と言ってもそんな相手から突然、「結婚相手として来てほしい」と言われたのです。リベカにしてみれば、突然、見も知らない土地に行くのは不安だったんじゃないかと思いますし、お兄さんやお父さんからすれば大切な娘をそんなところにやるなんて心配でたまらなかったんじゃないかと思います。そのように、リベカやリベカの家族を説得するのは、相当なハードルがあったんじゃないかと思います。
しかし、ここでアブラハムの僕がリベカたちを無理やり説得しているようには思えません。アブラハムの僕は、ここでただこれまでの一連の経緯を話しているだけでした。そして、最後は「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます」(24:49)と締めくくるのです。このアブラハムの僕の姿を見ながら思います。この時、アブラハムの僕はリベカやラバン、ベトエルを説得しようとするより、彼らの対応を見ながら、それも含めて、このことが本当に神様の御心かどうかを見極めようとしていたのではないでしょうか。アブラハムの僕は、あくまで神様の御心を求めていたのです。すると、そんなアブラハムの僕に対し、ラバンやベトエル「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」(24:50-51)と答え、リベカを連れていくことに同意したのです。本当なら、受け入れてくれるのには、大変なハードルがあったかも知れません。神様御自身が一人一人の思いを取り扱い、そのハードルを乗り越えさせてくださったのです。
本日の箇所を読みながら、改めて「御心を追い求める」ということについて考えさせられます。どれほど高いハードルがあったとしても、神様の御心であるなら、その扉は開かれていく…。アブラハムの僕が経験したことは私たちに大切なことを語っているのではないでしょうか。コロナの状況で、何かはっきりとした「正解」が見つからないまま、迷いながら日々を歩んでいます。そんな中、周りの状況を見ながら、一つ一つのことを選び取っていますが、何より大切なことは神様の御心が何かを追い求め、選び取ることなのだと思います。