「夕方暗くなるころに」
創世記24:52-67
イサクとリベカとの結婚が決まり、僕と従者たちは、リベカの家族にもてなしを受けることになりました。しかし、次の日になると、僕はすぐさま、「主人のところへ帰らせてください」と申し出たのです。これをリベカの家族たちは必死に引き留めようとします。「もう少しいいじゃないですか」。そのように訴えるのです。しかし、僕は「わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから」と語り、出発することにするのです。
本日の箇所を読みながら、「リベカの家族の姿に気持ちが分かるなぁ」と思ったりします。リベカがイサクと結婚するということについては、「これはもう神様の御心だ」と受け止め、結婚を認めました。ですが、やっぱり少しでもリベカと一緒にいたいという思いから必死に僕を引き留めているのです。家族なら当然、そうだろうなと思います。ただ一方で思うのは、それに対する僕の態度です。僕はこれまで神様の御心が何なのか、どこにあるのかということに関してはとても慎重で、注意深く吟味し、見極めようとしていました。ですが「これが確かに神の御心だ」と確信した時には、ぶれないで、すぐさま行動するのです。そんな僕の姿に、信仰者としての大切な姿があるのだと思います。私たちも信仰の歩みの中で「これが神様の御心なんだ」ということを信じ、その神様の御心に従っていこうと決断した時には、ぶれずに踏み出していくことが必要な時があるのではないでしょうか。
聖書には本日の箇所と実に対照的な話が書かれています。イサクの息子のヤコブについての話です。これから数十年後、今度はイサクの息子のヤコブがハランにやって来ます。そんな中、今度はラバンの娘たちと結婚することになるのです。ヤコブはラバンの娘たちと結婚した後、カナンに戻ろうとするのですが、ラバンに引き留められてしまいます。結局、ヤコブは20年もの間、ハランから離れられなくなってしまったということが記されているのです。本日の箇所でももしアブラハムの僕がラバンたちの言うことを聞いて留まっていたら、いつまでもこの地から離れられなくなってしまったかも知れないと思います。
私たちはこれまで四週に分けて、創世記24章を読み進めてきました。この箇所から、私たちは信仰者としての大切なテーマをたくさん学ぶことができるのではないかと思います。まずアブラハムやアブラハムの僕が、これから神様の働きを担おうとしていく者たちのために自分たちができうる精一杯の道備えをしていった姿に大切なテーマを学ぶことができると思います。アブラハムの僕が、ハランの地でイサクの結婚相手を探すにあたって、祈ることから始めたということ、そして、リベカとの出会いが与えられる中、慎重に事柄を見つめながら、神様の御心がどこにあるのかということを見分けようとしていった姿からも教えられます。加えて本日の箇所では「神様の御心はこれだ」ということを確信した際、そこから迷わずに応答していった姿が記されています。私たちの信仰の歩みもそのような形で歩むことができたらと思うのです。