「何とかして捕らえようと」
創世記25:1-6、12-18
アブラハムは妻サラと死別した後、ケトラという妻をめとり、ケトラとの間に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアという六名の息子がもうけました。アブラハムは、ケトラとの間に生まれた子どもたちをイサクから遠ざけて過ごさせました。このことについて考えたいと思います。この記述を読む時、イサクだけが特別扱いをされ、他の子どもたちがちょっと可哀想に思ったりするかも知れません。ですが、ここにはアブラハムの様々な思いが込められているのではないかと思います。
何よりイサクと他の子どもたちとは分けて取り扱うことは、アブラハム自身がイサクをひいき目に見るというところを越えたところの話だったのだと思います。イサクは神様の特別な取り扱いの中で生まれてきた子どもであり、神様ご自身が直接名指しでイサクの名前を挙げて、「イサクとの間に契約を立てる」(17:19)と言われていました。このことは神様の選びであり、アブラハムはこれまでの歩みでそのことを重々わきまえていたのだと思います。
また、そのイサクと他の子どもたちとを遠ざけたということについても思います。ケラトの子どもたちを遠ざけることは、アブラハムの本音とすれば、心痛めることだったかも知れませんが、「やはりそうしないといけない」という判断があったのだと思います。このまま、彼らをイサクと一緒にさせていたら、必ずトラブルになってしまうということを、イシュマエルの出来事などを通して、身をもって学んできたからです。それゆえトラブルが起こる前、お互いに傷つく前に、ケトラの息子たちをイサクから遠ざけようとしたのだと思います。そのように25:6に記されているアブラハムの行動からこれまで身をもって経験してきた痛みを再び繰り返すことのないようにとの配慮を覚えます。アブラハムはケトラの息子たちを移住させた時、彼らに贈り物を与えました(25:6)。このこともあのイシュマエルの出来事が念頭にあったのではないでしょうか。ハガルやイシュマエルが出ていく際には追放という形で出ていかせました。イサクのところから遠ざけるのであったとしても、あんなふうに乱暴な形で追い出すようなことはしたくない配慮の中で、ケトラの息子たちを移住させたのではないかと思います。
いずれにしても、本日のアブラハムの行動には、アブラハムの色々な思いが込められているのだと思います。アブラハムは、これまで神様を真っすぐに見上げ、歩んできました。その生涯は祝福された生涯でした。しかし同時にその歩みの中でたくさんの苦労もしてきましたし、迷ったり、悩んだりすることもありました。中には後々振り返って「あんなことはもう経験したくないし、繰り返してはいけない」という思いにさせられることありました。本日の箇所にはそんなアブラハムの姿が現れているのだと思います。私たちも信仰の歩みの中で右往左往しながら、痛みや失敗を経験することがあります。過ぎてしまったことはどうすることもできませんが、せめて同じ思いを繰り返さないよう、その経験から学び、そのことを踏まえて、精一杯のことをすることはできるのではないかと思うのです。