「種を蒔く人」

創世記26:1-14

本日の箇所には、イサクのペリシテ滞在の記述が記されています。イサクはペリシテの地で上手くやろうとリベカを「妹だ」と偽ります。しかし、このことがやがてバレてしまい、ペリシテの王アビメレクから非難されてしますのです。実は、創世記には本日の箇所と同じような記述が度々記されています(創世記12:10-20、創世記20:1-18)。その内容が余りに似ているので、聖書を研究する学者たちの中では、これらの話というのは、もともと一つの話だったんじゃないかと主張する人もいます。ですが、私個人としては、これらの記述を、それぞれ別々の出来事として読み進めていけたらと思っています。実際、本日の箇所には「アブラハムの時代にあった飢饉とは別に、この地方にまた飢饉があった」(26:1)と書かれています。ですので、別々の出来事として読みたいと思うのです。そんな中、このように同じような出来事が繰り返し、起こっていることに思わされることがあります。それは、ここでアブラハムやイサクが繰り返し、犯している失敗、過ちというのは、当時、彼らが置かれた状況を思う時に、こういうことはどうしても起こってしまう…。たとえ一度、失敗をし、痛い目に遭っていたとしても、また同じようなことを繰り返してしまうということがある…。そういうことだったのではないかと思うのです。

そのようなことは、私たちにもあるんじゃないかと思います。分かっているはずなのに、一度、失敗して痛い目に遭い、十分に凝りてきたはずなのに、また同じようなことを繰り返してしまう…。そういうことってあるんじゃないでしょうか。アブラハムやイサクがそんなふうに繰り返したことの原因は何だったのでしょうか。色々なことが言えるかも知れませんが、何より思うのは、アブラハムにしても、イサクにしても、これらの失敗を犯した時というのは、それまでのように神様のことを見上げることができなくなっていたんだろうなということです。本日のイサクもそうだったと思います。大きな飢饉に見舞われ、本当に大変な状況だったと思います。そのような中で、イサクたちはゲラルの地でペリシテ人の国に身を寄せて暮らすことになりましたが、ペリシテの人たちが歓迎モードでイサクたちを迎えてくれたわけではなかったのだろうと思います。そんな中、不安や恐れでいっぱいで、。それまでのように神様を見上げることができなくなってしまっていたのではないでしょうか。結果、人の顔ばかりを伺いながら、結局、リベカを自分の妹だということで、何とかうまくこの状況を切り抜けようとしていたのではないかと思うのです。

ですが、一方で、この箇所を読みながら、神様は終始徹底してイサクの味方であろうとしてくださったということです。イサクがこんなふうに失敗しているにも関わらず、イサクを守り、支え、祝福してくださっているのです。そんな中、これらの様々な出来事を通して、イサクは「もっと神様のことを信じてもいいんだ」ということを学んでいったのだと思います。

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