「井戸を掘り続けた人」

創世記26:15-25

本日の箇所には、イサクと近隣の人々との間の様々な出来事が記されています。ペリシテ人、そして、ゲラルの羊飼いとの間に井戸を巡るトラブルが起こり、その都度、イサクはその場所を追いやられてしまいます。本日の箇所を読む時、イサクは一方的にやられっぱなしという印象を受けるかも知れません。しかしながら、はたしてそうだろうかと思います。本日の箇所でイサクは最終的に誰にも邪魔をされない安息を勝ち取り、神様からの祝福を受けることになっています。その様子を見る時に、決してイサクはやられっぱなしではなかったのだと思うのです。イサクはペリシテ人たちやゲラルの羊飼いたちとのトラブルで結局、自分が身を引くことになるのですが、イサクはイサクなりに戦っていたのだと思います。ペリシテ人たちやゲラルの羊飼いたちと同じ土俵では戦っていなかったのかも知れません。しかしながら、イサクはイサクなりのあり方で戦っていたのです。

本日のイサクが何をしたのでしょうか。二つのことが印象的です。一つは「去った」ということです。イサクはペリシテ人たちのもとから、ゲラルの羊飼いのもとに「去った」と記されています。イサクは一体何から去ったのでしょうか。単にペリシテ人たちのもとから、ゲラルの羊飼いのもとから去っただけではなかったんじゃないかと思います。ペリシテ人たちのところには「妬み」が渦巻いていました。また、ゲラルの羊飼いたちのところには「争い」そして「敵意」が渦巻いていました。イサクが何より離れていったのは、単なる井戸ではなく、ゲラルの羊飼いやペリシテ人との「妬み」、「争い」、「敵意」だったのではないでしょうか。妬みの場所にいつまでも留まることなく、争いの世界に留まることなく、敵意の思いに留まることなく、その場所を離れ去ったのです。加えて思うのは、生み出し続ける姿です。争いの世界には何かを奪うこと、消費すること、破壊することしかありません。しかし、イサクのもとでは、様々な問題が起こる毎に、新しいものが生み出されているのです。平和を作りだす人…。その人の戦いって一体何だろうと思います時、このイサクの二つの姿が迫ってきます。「妬み」「争い」「敵意」の場所にいつまでも留まっていようとはしない姿…。壊す方向ではなく、生み出す方向に心が向いている姿です。

私たちもそのような方向を向くことができたらと思います。「妬み」や「争い」「敵意」の思いにいつまでも留まることなく、そこから立ち去ることができたらと思います。物事を壊す方向ではなく、生み出す方向に向かうことができたらと思います。イサクは今回の出来事を通して、たくさんやりきれない思いをさせられたり、悩んだり、痛んだりしました。しかし、イサクは決して一人ではありませんでした。イサクには同じような苦労や痛みを経験する人たちがいましたし、イサクのしていることを理解してくれている人、協力してくれている人もいました。そんな人たちとの出会い、交わりに励まされたり、立ち帰らされたり、気づかされたりしたのではないでしょうか。そんなイサクの姿に教えられ、励まされます。私たちもそんなイサクに連なっていけたらと思うのです。

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