本日のローズンゲンの御言葉です。

「お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である。わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる。」エゼキエル36:8-9

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。」マタイ20:1

以前、長崎の五島を訪れた時のことです。島を車で案内していただきました。車から外を見ていたところ、道路の脇のあちこちに畑がありました。それらの畑を見ながら、印象的だったのは、一つ一つの畑が皆、石垣で囲まれているということでした。一つ一つの畑の周りに、本当に立派な石垣が積み上げられているのです。その光景がすごく印象的で「これらの石垣の石は一体どこから来たんだろう」と思いました。後から聞いたところ、それらの石は、畑を作るために開墾をしている中で出てきた石だそうです。荒地だった場所を掘り返しながら、その都度出てきた石を取り除く…。そのようにして、出てきた石を石垣に積んでいったというのです。改めて、これらの場所にはもともと、それだけの石があったんだなと思いました。本日の箇所には次のように記されています。

「お前たちイスラエルの山々よ、お前たちは枝を出し、わが民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが戻って来るのは間近である。わたしはお前たちのために、お前たちのもとへと向かう。お前たちは耕され、種を蒔かれる。」

本日の箇所を読みながら、「お前たちは耕され、種を蒔かれる」という言葉が心に留まりました。主は私たち一人一人を、畑を開墾するように、耕されるんだというのです。本日の箇所を読みながら、ふと五島の畑を思い起こしました。五島の畑の周りに積み上げられた無数の石ころを思い出しながら、自分の中にもこのような石がないだろうかと思います。ちょっと掘ると、石が出てくる、出てくるというようなことがないだろうかと思うのです。私たちの心にある「石」とは何でしょう。色々なことが言えるかも知れません。私たち自身の心にある「神様の取り扱いを受け入れようとしない何か」なのだと思います。私たちの中の「こだわり」だったり、「頑なさ」だったり…。あるいは、私たちの中にある「心の傷」や、「痛み」がいつの間にか、私たちの中の石となって心に残っていることもあるかも知れません。色々なことがあるかも知れませんが、いずれにしましても、そのような私たちの中にある色々な思いが、心の中で石のように塞がっていて、神様の取り扱いを遮っていたり、御言葉を受け入れられないでいたり、そういうことがあるのではないかと思います。そんな自分自身の姿を思いながら、五島の農家の人たちが、石ころだらけの土地を丁寧に掘り起こしながら、一つ一つの石を取り除き、耕しているように、主は私たちの心を取り扱ってくださっているんだなと思いました。そして、私たちの心に命の種を蒔き続けてくださっているんだなと思いました。

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