「麗しい香り」

創世記27章18-29節

 本日の箇所で、ヤコブは、エサウに成り代わり、祝福を受けようとしました。嘘偽りを並べて、父イサクを騙し、祝福を受けることに成功します。27:27以降には、イサクがヤコブを祝福している様子が記されています。本当なら、この場面は本当に麗しい場面です。アブラハムの代から受け継がれてきた祝福が、いよいよイサクから次の世代に引き継がれていくのです。イサクも本当に感慨深い思いで、祝福の言葉を語ったのだと思います。しかし、私たちがこれらの言葉を聞いていても、正直、心から喜べません。イサクの祝福の言葉も心に入ってきません。むしろイサクが滑稽にさえ見えてしまいます。そんなことを思いながら、本日の箇所から一体、どんなメッセージを聞くことができるだろうかと思ってしまいます。

 本日の箇所を読みながら、ふと考えさせられたことがありました。本日の箇所をそのまま読む時、人間的なドロドロとした場面にしか思えないかも知れません。しかしながら、この箇所を少し違う角度から読み直そうとする時、そこから全く違うメッセージが聞こえてくるのではないかと思うのです。たとえば、先ほど27:18-19の御言葉をお読みしました。ここでヤコブは嘘偽りを言いながら、イサクに近づいている姿が記されています。またそんなヤコブは27:27でイサクに口づけまでしています。このヤコブの姿を見ながら、ふと思い出す聖書の箇所があります。ルカ22章にはイエス様が十字架に付けられるためにゲッセマネの園で捕らえられた場面です。この時、イエス様の弟子だったイスカリオテのユダがイエス様を裏切りました。そして、ユダはイエス様が逃げられないようにするため、口づけでもってイエス様に近づこうとするのです(ルカ22:47-48)。当時、そのような形で口づけをするのは、相手に対して、親愛の情を表すためでした。しかし、その口づけを通し、イスカリオテのユダは、イエス様を裏切るのです。本日の箇所のヤコブの姿と、このイスカリオテのユダの姿はどこか重なって来るのではないでしょうか。

 イサクはヤコブが近づいてきた時、そのことに気づきませんでした。自分の息子がそんなふうに自分を騙そうとしているなんて思いもしませんでした。しかし、イエス様は違いました。イスカリオテのユダがご自分に近づいてこられた時、ユダが自分を裏切ろうとしていることを知っていました。にも関わらず、イエス様は全てをご存じの上で、ユダを受け入れました。そして、その上で、ユダの口づけをも受け入れたのです。そんなことを思いながら、本日の箇所と、十字架の出来事とが重なってくるように思いました。そして、何より思わされたことは、私たちも本日のヤコブだったり、イスカリオテのユダと同じではないだろうかということでした。ヤコブやイスカリオテのユダが言い逃れのできない罪に向かっていったように、私たちも愚かな罪を繰り返しているのではないでしょうか。しかし、そんな私たちであるにも関わらず、イエスは私たちを赦し、愛してくださいました。それというのは、自分に口づけをしようと近づいてきたイスカリオテのユダを、すべてのことを知りながら受け入れ、抱きしめてくれている姿そのものなのではないかと思います。

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