「井戸での出会い」

創世記29章1-14a節

 本日の箇所には、荒れ野を旅したヤコブが無事ハランにたどり着いた様子が記されています。ヤコブは親戚であるラケルに会うと口づけをし、声をあげて泣きました。その様子に「ヤコブ、本当に良かったな」と思います。自分の家を出て、一人で荒れ野を旅しながら、ヤコブはこれまで本当に大変だったと思います。心細かったと思いますし、不安だったと思います。先の見えないしんどい歩みを続けながら、ヤコブはようやくハランにまでたどり着きました。そして、ようやくラバンの娘のラケルに会うことができました。心赦せることができる身内に会えたと思った時、ヤコブは思わず、色々な思いがブワっと溢れ出てきて、目に涙が溢れてきたのです。そんなヤコブの姿に「ヤコブ、本当に良かったな」と思いますし、私たちが励まされる思いもします。神様は時に私たちをもヤコブのように取り扱ってくださると思うからです。私たちも時にヤコブが経験したような人生の荒れ野を進むことがあります。その中で、神様は私たちに近づき、御言葉を通して、「わたしはあなたと共にいるんだよ。あなたがどこに行っても、あなたを守る。あなたを決して見捨てない」と語りかけてくださることがあるのだと思います。そして、様々な出来事を通して、ヤコブをハランにたどり着かせてくださったように、私たちを荒れ野の状況から救い出してくださることがあるのだと思います。実際、これまでの歩みの中で、そのような経験をさせた方がおられるのではないでしょうか。私自身、これまで度々、そのような経験をさせられてきました。特にこのコロナの状況の中、そんな思いにさせられています。そのことを思う時、本日のヤコブの姿が他人事には思えませんし、なお一層良かったなと思うのです。

 そんな色々なことを考えさせられながら、本日の箇所から思うことがあります。それは、本日の舞台となっている「井戸」についてです。私は教会という場所が、この「井戸」のような場所になったら素晴らしいんじゃないかと思っています。本日の箇所で、孤独を抱え、不安を抱え、うえ渇きを覚えていたヤコブは、すがるような思いで、この井戸にやって来ました。そして、そこで喜びが溢れるような出会いを経験しました。私は教会という場所が、そのような場所になったらと素晴らしいと思うのです。教会に来られる方も色々な方がおられます。時に色々な思いを抱えながら、孤独だったり、不安だったり、心に飢え渇いた思いを抱えながら、やって来られる人もおられると思います。そんな中、この場所で心の底から潤うことができるような癒しや満たしを経験し、喜びが溢れるような特別なイエス様との出会いが与えられたらと思います。教会という場所が私たち一人一人にとって、そういう井戸になればと思うのです。そして、さらに思います。私たちがヤコブのような形で終わらないように…。本日の箇所で、井戸の周りにヤコブやラケル以外にも井戸を求めてきた人がいたように、私たちの周りには私たちと同じように、うえ渇き、救いと助け、支えを求める人がいるのだと思うのです。そのような一人一人と恵みを分かちあうことができるようにと思います。その時、教会はさらに豊かな場所になっていくのだと思うのです。

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