本日のローズンゲンの御言葉です。

「死ぬことなく、生き長らえて/主の御業を語り伝えよう。」詩編118:17

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20

本日、午後教会学校キャンプが行なわれます。一応、名称は教会学校キャンプというものですが、例年の教会学校キャンプとは異なります。例年ですと、毎年、教会と教会以外の場所でキャンプを行ない、バーベキューをメインにしながら、その合間にレクリエーションを行なったり、研修を行なったりしてきました。ですが、昨年もそうですが、今年もコロナにより、そのような形で教会キャンプは難しい状況があります。バーベキューができません。加えて、この時期に研修を行なったりするのもしんどかったりするかも知れませんので、昨年はとにかく集まって、自由に話しをする時間を持とうということになりました。これまで不要不急なこと、無駄な外出だったりや交わりだったりを避けるということが言われてきましたので、今回に限っては、「無駄話をしましょう」ということを話し合ったのです。「こんなことわざわざ言うことでもないかな」と思いながら、自分の中で貯めてきた色々な事柄が色々あったかも知れませんから、「そういう思いを少しでも分かち合うことからできるような時になったらいいですね」というふうにも話し合いました。昨年の教会学校キャンプは、本当に時間があっという間に過ぎて、プログラムを終えた後も、幾人かの方が残っておられました。帰り際、「こういう機会、またもてたらいいですね」とおっしゃってくださる方もいました。そんな中、今年も同じような形で、交わりの時を持ちましょうということになりました。昨年に加えて、今年は「ZOOMでの参加もできるようにしたらいいね」という意見も出され、そのようになりました。ぜひそのような主による分かち合いの時をもてたらと思っています。本日の箇所には次のように記されています。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

現在のコロナの状況を思う時、本日の御言葉がなおいっそう心に迫ってきます。昨日も教会学校の中ではエゼキエル書を読み進めていましたが、御言葉の分かち合い中で、ある方がこんな話をしていました。

「現在、このコロナの状況で、『生きていたってしょうがないんじゃないか』と考えたりする人が増えていると言われている。私たちだって、ふとした瞬間に、そんな思いに沈みこんでしまいそうになることがあるかも知れない。自分が生きている意義や理由が分からなくなってしまいそうになる時がある。しかし、そんな私たちが生きようとしていくとするなら、それは何よりこの状況にあって、それでも『生きよ』(エゼキエル18:32)と語り続けてくださっている主がおられるからなんだと思う。その主の呼びかけに励まされながら、私たちは生きようとするのだと思うし、私たちの周りの一人一人の命も尊ぶ思いにさせられるのだと思う。」

お話を聞きながら、本当にそうだなと思いました。本日の御言葉を読みながら、改めて昨日の教会学校を思い浮かべました。私たちは時に迷ったり、悩んだりしながら、自分が生きている意味さえ分からなくなってしまいそうになることがあります。そんな中、私たちを一つのところに立たせ続けてくれるのは、主の御言葉なのだと思います。そして、その主の御言葉に生かされていく時、私たちは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」との信仰に生かされていくのだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Translate »