「沈められた若枝」

創世記30章37-43節

 これまでヤコブはラバンから散々な仕打ちを受けてきました。表面上はうまいことを言いながら、実際にはいいようにこき使われてしまう…。そんなことばかりされてきたのです。そんなラバンに対して、ヤコブがようやく一矢報いたのが、本日の箇所かも知れません。本日の箇所でヤコブは自分のところの羊や山羊を増やそうとしました。そこで、ポプラとアーモンドとプラタナスの木の若枝の皮をはぎ、その木の枝を家畜の水飲み場の水槽の中に入れたというのです。すると、家畜の群れはさかりがつき、その枝の前で交尾して縞やまだらやぶちのものを産んだのでした。しかも、ヤコブは、丈夫な羊たちの時しかそのようなことをしませんでした。このため、ヤコブのところにいる家畜はどんどん丈夫なものたちが増えていき、ラバンのもとには弱いものが残ったというのです。本日の箇所には、そんなふうに様々な工夫をしながら、ヤコブが多くの家畜を得るようになっていった様子が記されています。この箇所を読む時、ヤコブのやり方が賢くて、そのやり方がうまくいったおかげで、ヤコブは多くの家畜を得るようになっていったという印象を受けるのではないでしょうか。しかしどうでしょう。ヤコブは本日の箇所で、あれこれと色々なことをしているかも知れませんが、実際にヤコブのところにいた家畜たちが縞やまだらやぶちのあるものを産んだのは、ただただ神様が働いてくださったからなのではないかと思います。そして、それはヤコブ自身も感じていたことだったと思います。31:8-9には、ヤコブがレアやラケルに対し「お父さんが、『ぶちのものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみなぶちのものを産むし、『縞のものがお前の報酬だ』と言えば、群れはみな縞のものを産んだ。神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ。」というふうに語ったことが記されています。この言葉にもあるように、ヤコブ自身、家畜たちがそんなふうに縞やまだらやぶちを産んだのは、神様が働いてくださったからなんだと考えていたのでした。

 このことは本日の箇所を読み解く上での大きなポイントとなってくるんじゃないかと思います。そして、それは私たちにも大切なメッセージを語っているのではないでしょうか。私たちも日々の歩みの中で、目の前の問題に格闘しながら、私たちなりに一生懸命知恵を振り絞ってあれこれとやっていることがあります。そんな中、ある程度、結果が出ると、あたかも自分たちの知恵や頑張りで上手くやっているように思えることがあります。しかし、よくよく考える時に果たしてそうだろうかと思うことがあるのです。たとえば、コロナの状況で、私たちは色々なことを考えやって来ました。できうる限りの感染症対策をしてきました。しかしながら、ここまで守られてきたのは、自分たちが頑張ってきたから、できたというよりも、ただただ神様が守ってくださったからだという思いがあります。そして、それというのはきっと、実際に目の前の現実に奮闘し、自分なりにできることをしようと格闘してきたからこそ、身に染みて実感してすることなのではないかと思います。ヤコブもきっと、そのような経験をしてきたからこそ、31:8-9のようなことを言っているのではないかと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Translate »