「子どものようになりなさい」

マタイによる福音書18:1-5

 今年で東日本大震災が起こって10年が経ちます。この間、被災地の教会では、津波被災地、地震被災地、そして、原発事故の被害者の方々に寄り添う活動を続けてきました。そんな中、現在、10年の節目ということで記録集のようなものを作ろうと準備をしているようです。私も震災当時、色々な関わりがありましたので、いくつかの項目で執筆をしてほしいということで依頼を受けました。震災からの歩みを振り返ってみる時にひしひしと心に迫ってくるのは、申命記32:11です。

「鷲が巣を揺り動かし/雛の上を飛びかけり/羽を広げて捕らえ/翼に乗せて運ぶように」(申命記32:11)

 この御言葉は、モーセが40年に渡るイスラエルの民の荒れ野の旅を振り返って語った言葉です。40に渡る荒れ野の旅は、その日その日を必死になって歩んでいた歩みだったのだと思います。モーセはその荒れ野の日々を振り返り、自分たちは、鷲が雛を捕らえて運ぶように、神様に運ばれてきたんだと語りました。震災からの歩みを振り返ってみる時、私はこの御言葉が心に迫って来ます。本当に先が見えない歩みの中、その日その日を必死になって歩んでいました。そんな私たちを神様が運んでくださった歩みだったのだと思うのです。そして、そんな私に神様は様々な出来事や出会いを通して、様々なことを教えてくださいました。

 震災支援の様々な働きを振り返ってもそう思います。その働きの一つ一つは、私たちが意図して、そういうふうにしてきたというより、神様の不思議な取り扱いで働きの形が整えられていったものでした。まさに右も左も分からないような「災害支援の素人」である私たちを、神様は様々な出会い、出来事を通して、大切なことを教えてくださったり、なすべきことを分からせてくださったりしていったんだと思うのです。学校の先生が子どもたちに教えてくださっているようにも思いますし、先ほどの申命記の御言葉にあるように、鷲が雛を捕らえて運ぶように、私たちを持ち運んでくださった…。そんなふうに思います。そして、それは何も被災地ボランティアのことだけではないと思います。今も、私たちの目の前には色々なことがあります。そんな中、目の前のことに対して、右往左往している私たちがいますが、そんな私たちを、主はその時々に必要な出会いや出来事、そして、必要な御言葉を与えてくださり、大切なことを教えてくださったり、なすべきことを分からせてくださっている…。まさに「主にあって育まれ、導かれながら、成長させられていること」を思うのです。

 そして、それというのは今もそうだと思います。どこまで言っても分かっているようで分かっていない私がいます。そんな私が主の深い忍耐と憐れみの中で取り扱われながら、その都度、御言葉を通して、大切なことを教えてくださったり、なすべきことを分からせてくださっているのだと思うのです。本日こうして成長感謝礼拝を献げながら、改めてそんな自分をわきまえていたいと思いました。そんな自分であることをわきまえながら、子どものように心を主に向かわせ続けていきたいと思います。そんな中、互いに育まれながら、導かれながら、成長させられ、天の国に近づくことができたらと思うのです。

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