本日のローズンゲンの御言葉です。

「主よ、お話しください。僕は聞いております。」サムエル記上3:9

「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」使徒16:14

本日の箇所には、次のように記されています。

「ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。」

ここにはパウロがフィリピで行なった伝道の様子が記されています。この時、パウロが話したメッセージに多くの者が耳を傾けました。その中にティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人がいました。彼女はパウロの言葉を受け、家族と共にバプテスマを受けることになります。彼女はパウロのヨーロッパ伝道における最初のクリスチャンとなるのです。本日の御言葉を読みながら印象に残ったのは、リディアが最初、話を聞いていた後、さらに「注意深く聞いた」と記されている箇所です。最初の「聞く」状態と、その後の「聞く」では明らかに状態が違っているのだと思います。その様子について「注意深く」という言葉で説明されていますが、同時に「主が彼女の心を開かれたので」というふうにも書かれています。同じメッセージを聞いていても、心が開かれた状態で聞こうとしていく…。そこで受け取るものは大きく違っていたのだと思います。本日のリディアの姿を見ながら思い出したことがあります。それは「信じる」ということについてです。

以前、「信じて、物事を見る」ということについて、こんな説明をしたことがあります。もうだいぶ無くなってしまいましたが、旧式の液晶画面で説明をしました。旧式の液晶画面というのは、その画面と真っすぐに向き合わないと、映像が見られませんでした。斜めからでは画面は真っ暗に見えたのです。しかし、斜めから見るのを辞めて、画面と真っすぐに向き合う時、初めて見えてくる映像がありました。「信じて、物事を見る」ということも、それと重なってくるのではないかと思います。私たちにとって、信じて、物事を見ようとする時というのは、そのものと真っすぐに向き合おうとしているのだと思います。同じように見ていても、斜めから見ていることもあるのだと思います。しかし、いくら一生懸命見ても、斜めからではどうしても見えないものがあり、真っすぐに向き合おうとしていく時、初めて見えてくることがあるのだと思うのです。本日の箇所で、リディアはそんなふうに変えられていったのではないかと思います。最初はパウロのメッセージを聞きながら、どこかで斜めから見ていたところがあったのではないでしょうか。しかし、そんなリディアが次第次第に心を取り扱われながら、パウロの語る福音と真っすぐに向き合うようになっていき、そうすることでさらにそのメッセージの一つ一つが心に迫ってきたのです。そんな中、リディアは主に捕らえられていったのではないかと思うのです。そんなリディアの姿を見ながら、私たちも同様に主に出会うことができたらと思わされました。

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