「神がわたしの味方でなかったなら」

創世記31章22-42節

 ヤコブは20年の間、ハランの地で過ごしました。そのヤコブがいよいよ故郷であるカナンの地に向けて旅立っていったのが、本日の箇所です。ヤコブの祖父であるアブラハムが、自分の子孫に与えると約束してくださったのは、このカナンの地でした。ですから、ヤコブがカナンの地に帰るということは、神様の壮大なご計画でした。ですが、本日の箇所を読みながら、正直、ヤコブがこんな形でハランを出発しなければならなかったことに対して、残念だなと思ってしまいます。かつてヤコブは単身、このハランにやって来ました。そこでラバンのもとに身を寄せることになったわけですが、あの時のことを思います時に、何でこんなふうになってしまったんだろうと思います。身を寄せる場所がどこにもなかったヤコブにとって、ラバンとの出会いはかけがえのないものであり、唯一頼りとすることのできる存在でした。ラバンの存在がヤコブにとって、本当にありがたかったと思いますし、ラバンのことを信頼も尊敬もしていたのだと思うのです。しかし、この間、ヤコブは散々、ラバンから傷つけられ、失望し、関係がどんどんおかしくなっていき、ついにラバンのところから逃げ出すような形で出ていくことを決心することになったのでした。

本日の箇所でまず、心に留まったのは、「ヤコブが逃げたことがラバンに知れたのは、三日目であった」(31:22)という記述です。聖書には、ラバンが自分たちの羊や山羊の群れを、ヤコブと区別するため、「自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた」(30:36)と記されています。おそらく、ラバンは、自分たちの羊や山羊をヤコブに取られないようにするためにそうしたのではないかと思います。いずれにしましても、ラバンは自らヤコブたちとの間にそのような距離をおいていたのです。このことゆえに、ヤコブがいなくなった後、三日目になるまでそのことが分からなかったのです。そして、何というのでしょう。この三日かけなければたどり着けない距離を通して、分からなかったことというのは、何もヤコブが出ていったことだけはなかったんじゃないかと思ったりしました。お互いを隔てた距離の先に、ヤコブがどんな経験を通らされ、どんなことを思っていたのか、ラバンは分からないでいたことがたくさんあったのではないかと思うのです。この距離の先にどれだけ、ヤコブが辛い思いがしていたのか、苦しんできたのか、そんなこともラバンは分からずじまいで過ごしてきたのではないかと思うのです。

いずれにしても、本日のラバンは、ヤコブがいなくなった時に「逃げた」と思い、追いかけ、ヤコブに対して「何ということをしたんだ」と責め立てているわけですが、ラバンは余りにも分かっていないことがありました。逆にこの20年間、自分がヤコブにしてきたことを突き付けられ、責められることになるのです。そんなラバンの姿を思う時、身につまされます。私たちも時に、ラバンのようになっていないだろうかと思うのです。身近な存在だったはずの誰かを、知らない間に悲しませ、悩ませながら、いつの間にか、お互いの間に、大きな溝ができてしまっていることがあるのだと思うのです。

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