「主が見張ってくださる」

創世記31章43-54節

 本日の箇所には、ヤコブとラバンとが契約を結んだ様子が記されています。ヤコブとラバンは、本日の箇所で、お互いに、お互いのテリトリーを犯さない…。いわば不可侵条約を結びました。私たちはこれまでヤコブやラバンの記述を読み進めてきました。二人の関係はここで大きな区切りを迎えることになります。その様子を見ながら、ひとまず「良かったな」と思います。これまでヤコブは、ラバンとの関わりの中で、散々振り回されたり、悩まされたり、傷つけられたりしてきました。そんな中、ある意味、こうしてお互いの間にきちんとした線を引くことで、もうこれ以上は振り回されることもないですし、悩むことも傷つくこともないのだと思います。そういういみではこれから安心して過ごせます。そのことに良かったなと思うのです。しかしながら一方で、複雑な思いにもさせられます。二人のこれまでの歩みを思う時、このような形でお互いに、線を引かなければならない状況に「やっぱり残念だな」「こんな選び取りをするしかなかったのかな」と思うのです。

31:36-42にはラバンに対するヤコブの切実な訴えが記されています。ヤコブの訴えを通して、ラバンが20年間ヤコブに対してしてきたことを突き付けられた状況だったのではないかと思います。ヤコブにしてみれば、少しでもラバンに自分の思いを知ってもらいたいという思いだったのではないでしょうか。しかし、それに対するラバンの返答は相変わらず、悪いのはヤコブだ」ということでした。レアもラケルも、ヤコブに嫁がせていたにも関わらず、未だに「この娘たちはわたしの娘だ」と主張し、「この孫たちもわたしの孫だ。この家畜の群れもわたしの群れ、いや、お前の目の前にあるものはみなわたしのものだ」と主張しているのです(31:43)。この言葉を聞いた時、ヤコブはどんな思いだったでしょう。本当にがっかりだったのではないでしょうか。結果、ヤコブとラバンがお互いにきちんと線を引いて、「敵意をもって、わたしがこの石塚を越えてお前の方に侵入したり、お前がこの石塚とこの記念碑を越えてわたしの方に侵入したりすることがないようにしよう」(31:52)というふうに取り決めたことは賢明な判断だと思います。

ただ、ここで不思議だなと思うことがあります。それは「お互いにこの石塚を越えないようにしよう」と言い出したのがラバンだったということです。ラバンの主張は、あくまで被害者は自分でした。ヤコブは自分の娘も孫も家畜も奪ってしまったし、これ以上奪われたくないという思いから、そう言い出しているのです。このこと自体はラバンの側の勝手な主張でした。しかしそのようにラバンのほうから線を引きたいと言ってくるは、ヤコブとしても良かったのだと思います。そして、その様子に神様の取り扱いを思うのです。主がラバン自身の思いを越えて、ラバンを取り扱い、そんなふうに言い出せてくださったのだと思うのです。

人には様々な思い計らいがあります。そこだけを見てしまうと一喜一憂してしまうことがありますが、その背後にある神様の業を見ていくことができたらと思うのです。

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