本日のローズンゲンの御言葉です。
「栄光に輝く王とは誰か。強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。」詩24:8
「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」マタ21:9
本日の箇所には、次のように記されています。
「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」
ここは有名な「エルサレム入城」の箇所です。 イエス様がエルサレムにやって来た時、人々はイエス様を歓迎し、「ホサナ」と言って讃美しました。「ホサナ」とは、相手に対して「今こそ救ってください」と願う嘆願の言葉です。その他、讃美の言葉として用いられたりしていました。また、この時、人々は自分の服を道に敷いたりしましたが、それは、当時王を迎える方法として行なわれていたことでした。
ある牧師が、本の中で、この箇所について、こんなことを言っています。エルサレム入城に際して、イエス様は人々に王として迎えられることを望まれたということを考えてみた時、ぎくりとしたというのです。それには二つの理由がありました。まず、一つ目は、それまでの自分が持っていたイエス様としてのイメージに合わないということです。王というのは、どこか権力を振りかざして、上から下を見下ろすというイメージに思え、それを望まれたということは、イエス様らしく思えないと思ったのだそうです。ただ、実際は真の王として来られたイエス様は、ロバに乗って来られました。決して上から下を見下ろすというのではなく、私たちの目線に立ってくださる王として来られたのです。しかしながら、イエス様が王として来られたということは変わりませんでした。それが一つ目のぎくりでした。
もう一つは、自分が果たしてイエス様を王として迎えているのかと考えた時、ぎくりとしたそうです。「イエス様は御自身を王として迎えられることを望んでおられるが、自分はそれに対応しているのだろうか。私たちは自分の生活は自分が支配するものと考えて、その主導権を譲りたがらないところがあるのではないか。信仰を持ったはずでも、まだそのように思い込んでしまう自分がいるように思わされる。そんな中、イエス様というのは、支配する方ではなくて、私たちに仕える方ではないだろうか。私たちを助けてくださる方であるかも知れないけれども、支配する方ではないはずだとどこかで思い込んでいるのではないだろうか。だから、ここでイエス様が王となろうとしている、王として迎えられることを望んでおられるとはっきり言われるとぎくりとし、うろたえてしまう自分がいる」。その牧師は、そのように自分の率直な思いを書いているのです。
しかし、そのように書きつつ、こんな言葉で締めくくっています。
「しかし、私たちの信仰が不健康になっているのは、そのようにイエスの入城、私たちの心の中にイエス様が入ってこられることを拒もうとする時である。」
色々なことを考えさせられる言葉です。今朝、今週の礼拝をインターネットで献げたという方から、こんなメールが届きました。「12/19の礼拝動画を観ました。励まされました。インマヌエルだとわかっているけど、その素晴らしさを忘れていました。」
本日の御言葉を読みながら、この方のメールも思い返しています。私たちは現在、アドベントの時を過ごしていますが、このアドベントは、イエス・キリストの誕生を思いながら、イエス・キリストを新たな思いで心にお迎えする時なのだと思います。そんな中、私たちは、イエス・キリストをインマヌエルの神として、私たちの真の王としてお迎えしていくのだと思います。本日の御言葉を読みながら、改めて、そのような方として、私たちの心に迎えていくことができたらと思いました。