「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」
ヨハネによる福音書1:29-34
私はバプテスマを受けて、信仰の歩みを始めようとしておられる方に時々にお話させていただくことがあります。それは「これからの信仰の歩みの中で色々なことがあるかも知れませんが、イエス・キリストに感動する思いを忘れないでください」ということです。このことは、私自身、大切にしたいと思っていることです。私にとって、自分自身の信仰を確認する上でのバロメータのようなものではないかと思っています。これまでの歩みを振り返ってみます時に、時々にこの部分がぼやけてしまっていることがありました。そういう時というのは、たいてい、自分が立っている場所がおかしくなっていると言いますか、何か自分が大事なところから迷い出てしまっているように思います。結果、進む方向がおかしくなっていたり、行き詰ったり、失敗したりしまうのです。そういう経験からも「キリストに感動する信仰」を忘れないでいたいと思っています。もしこのことを見失いそうになっている時は、立ち止まって、よくよく心を静めて、自分の歩みを顧みていかないといけないと思うのです。
本日の箇所に記されている出来事も、そんなふうにイエス様との出会いを通して、感動した人の出来事と言えるんじゃないでしょうか。本日の箇所で、バプテスマのヨハネは、イエス様が近づいてくるのを見た時、人々に対して「見よ」と語りました。「見よ」との言葉にはイエス様に出会えたことの感動が表れているのではないでしょうか。さらに印象的なのは、バプテスマのヨハネが、「見よ」という言葉に続けて語った言葉です。ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と語りました。「世の罪を取り除く」ということは、ヨハネが何より願ってきたことなのではないかと思います。バプテスマのヨハネは人々に悔い改めのメッセージを語りました。ヨハネを通して、多くの人々が悔い改めへと導かれ、それまでの罪から立ち帰っていきました。その姿を思う時、ヨハネは誰よりも罪の問題と向き合った人であるのだと思います。しかし、そのような人であるほど、罪の問題の大きさ、深刻さ、根の深さを突き付けられたりすることもあったのではないかと思います。そんな思いを通らされたからこそ、イエス様に出会った時、溢れるほどの感動を覚えたんじゃないでしょうか。「見よ、この人だ」「この人こそ、私たちから罪を本当の意味で取り除いてくださる方なんだ」そのような思いに溢れたのではないかと思うのです。
今年一年、本当に色々なことがありました。そんな中、つい目の前のことにいっぱいいっぱいになってしまいそうになることがありました。そんな中、その度に立ち帰らされてきたのは、まさに本日の箇所でヨハネが語った「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という思いでした。私たちの目の前の問題を本当の意味で解決し、本当の意味で私たちを真実の道へと導き、救い出してくださるのは、「世の罪を取り除く神の小羊」であるイエス・キリストだ…。この方を見なきゃいけない…。そういう思いに立ち帰らされてきたように思います。そんなことを思いながら、改めて本日の「見よ」というヨハネのメッセージが私たちに語りかけられているのではないかと思います。