「神との格闘」
創世記32章23-33節
本日の箇所は、ヤコブがいよいよエサウと再会する直前の箇所です。ヤコブは、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡りました。しかしながら、ここでヤコブみんなは先に行かせて、ヤコブは独りでこの場所に残りました。その夜、何者から突然現れ、ヤコブはその者と夜明けまで格闘したというのです。「この話って、いったい何だろう」と不思議に思う人もいるのではないでしょうか。「この格闘の意味は何だろうか」と考える時、様々な見方ができるんじゃないかと思います。ただ、これまでの経緯について考えながら、事柄を整理していきたいと思います。まずここに書かれているのは、ヤコブが最初、相手が誰かも分からずに格闘を始めたということでした。しかしやがて、その相手が誰かを知らされます。それは神様でした。そのことを踏まえつつ、これまでの歩みについても振り返ってみたいと思います。その時、思わされることがあります。それは神様がこの少し前に、ヤコブに対してどんな形で現れてくださったのかということです。創世記32:2-3でヤコブは天の御使いたちの陣営を見たことが記されています。この時、神様がヤコブに示してくださったのは、「あなただけがこの課題と戦おうとしているんじゃない。私も一緒になってこのことと戦おうとしているんだ」ということでした。それにも関わらず、32:25では神様とヤコブが戦っているのです。「あれ?」と思ってしまうのではないでしょうか。何でこんなふうになってしまったのだろうかと思います。神様がいつの間にか、心変わりをされ、ヤコブの味方だったはずなのに、敵側になってしまったのでしょうか。そうではないと思います。むしろ、ヤコブの方でそうなっていたのではないかと思うのです。せっかくヤコブと共に戦ってくださろうとしていた神様に対して、ヤコブはいつの間にか抗おうとし、神様に対して必死になって抵抗しているのです。ヤコブにしてみれば、人生の最大の局面を前にしている状況で、本当なら、一番神様の助けが必要なはずの場面だったのではないでしょうか。しかしながら、その神様に対し、いつの間にか、必死になって抗い、抵抗している…。そんなヤコブの姿を見ながら、私たちもそんなことがあるんじゃないかと思います。私たちにとって神様の助けや支えが一番必要な場面で、本当は神様が私たちに手を差し伸べてくださっているにも関わらず、私たちの側でいつの間にか、神様に対して必死になって抗っているのです。
本日の箇所を読みながら、何より印象的なのは、ヤコブと神様が夜明けまで格闘した結果、ヤコブが勝ってしまったということです。しかしながら、はたして本当に、神様はヤコブに勝てなかったのでしょうか。そんなことないと思います。ヤコブが勝ったというより、神様が勝たせてくださったのだと思うのです。実際、戦った当事者であるヤコブは、夜明けになり、自分が格闘してきたのが神であったということを知った時、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」(32:31)と語りました。自分がこれまで神と格闘してきたことを知らされた時、ヤコブは「自分は神と戦って勝ったんだ」と思ったのではありませんでした。そうではなくて、「自分はこの間ずっと生かされていたんだ」と思ったのです。