「この子はベニヤミン」
創世記35章16-22節
本日の箇所は、ヤコブの愛する妻ラケルが亡くなった記述です。ヤコブたちはハランを出発し、カナンの地を転々としながら生活してきました。荒れ地での天幕生活は、私たちに想像もできない厳しさがあったのだと思います。ラケルは二人目の子どもを出産している最中、周りの必死の支えにも関わらず、ラケルは亡くなってしまうのです。ラケルは生まれてくる子どもに「ベン・オニ」という名前を付けました。意味は「わたしの苦しみの子」です。ラケルが最後まで苦しみながら亡くなった様子が、この名前に表れているのだと思います。
聖書を読みますと、本日のラケルの記述に度々注目し、取り上げている様子が記されています。エレミヤ記31:15には「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」とあります。エレミヤはバビロン捕囚を目のあたりにした預言者でした。そのエレミヤがバビロン捕囚の人々の苦悩と嘆きを語った際、取り上げた名前がラケルでした。本日の箇所で、悲しみに暮れ、周りからの励ましや慰めも届かず、苦悩の中で最後を迎えるラケルの姿と、バビロン捕囚の中、悲しみ嘆くイスラエルの姿を重ねて語っているのです。
そして、このエレミヤの言葉は、さらに新約聖書にも引き継がれていくことになります。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから』」(マタイ2:16-18)。クリスマスの時、イエス様がお生まれになった後、それを知ったヘロデが、ユダヤ人の王の誕生を何とか阻止しようとベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の子どもたちが殺していきました。その出来事を記す際、マタイによる福音書の著者は、エレミヤ31:15の御言葉を取り上げているのです。エレミヤがかつて語ったバビロン捕囚の悲しみ、そして、それにさかのぼる形でのラケルの悲しみを取り上げながら、ヘロデによって子どもたちを殺されたベツレヘムの人たちの悲しみを語っているのです。
このように、聖書は本日のラケルに注目し、しばしば取り上げています。その様子に、聖書が本日のこのラケルの悲しみ、嘆きを軽くは見ていないんだなと思います。本日のラケルの姿に注目しながら、繰り返し、ラケルの悲しみに重ね合わせるようにして、イスラエルの歴史を語っているのです。このラケルの悲しみは、ラケルだけのものではなく、イスラエルの歴史が様々な場面で通らされてきた悲しみなんだなと思うのです。そして、それは、イスラエルの歴史だけではなく、私たちの歩みでも通らされる悲しみではないかと思います。私たちも時に、周りのどんな励ましも、慰めも届かず、慰められることを拒みたくなるような思いにさせられてしまうことがあるかも知れないと思うのです。