「ヤコブの息子たち」
創世記35章22-26節
本日の箇所に記されているのは、ヤコブの12人の息子たちの名前です。この12人の息子たちの子孫たちが、やがて12部族と呼ばれるようになりました。そして、神の民イスラエルと呼ばれるようになっていくのです。言うなれば、本日の箇所に名前が挙げられている12人の息子たちというのは「神の民の原型」ということができるのだと思います。そんな12人というのは、本当にバラエティに富んだ一人一人でした。彼らの歩みには、本当に色々なことが起こっていきました。その様子を、私たちがこれまでも創世記の中で読んできたのだと思います。たとえば、創世記34章には、シケムという地で起こった出来事が記されています。ヤコブの娘ディナが、ある時、土地の娘たちの会いに出かけた時のことです。ディナはシケムの町の首長であるハモルの息子に乱暴をされてしまいました。ヤコブはこの事件を何とか事を荒立てずに治めようとするのですが、ヤコブの息子のシメオンとレビは、ヤコブに黙って、シケムの人たちに復讐しようするのです。結果、ヤコブたちと近隣の人たちの関係が取り返しのつかない状況になってしまったことが記されています。また、ルベンについては、本日のすぐ前にある35:21にその問題が描かれています。
創世記には、そんなヤコブの息子たちのエピソードが記されているのですが、その一つ一つの記述を読む時、正直、「問題だらけだな」と思ってしまいます。「こんな人たちが本当に神の民なの?」とさえ思ってしまいます。しかし、そこに聖書の大切なメッセージがあるのではないかとも思ったりします。神様が御自身の民として選ばれた人々というのは、何か最初から立派な人たちだったわけではなかったということです。一人一人個性的、もっと言うなら、色々な問題を抱えていて、その問題を見ると、「とんでもない」と思ってしまうような集まり、ともすると、躓いてしまうような集まりが、神の民の原型として挙げられた一人一人だったのです。しかし、神様はそんな一人一人を見捨てることがありませんでした。そして、関わり続け、取り扱ってくださったのです。その神様の取り扱い、忍耐強い関わりの中で、彼らは少しずつ、取り扱われながら、変えられていったのです。本当だったら、神の民なんて、呼ばれるに値しないような一人一人が、ただひたすら神様の憐れみというしかないような取り扱いによって、造り変えられ、神の民とされていったのです。そんなヤコブの息子たちの姿を見ながら、私たちもそうなんだなと思います。
私たちというのは、本来、私たちだけを見ていれば、とても神の民とは呼べないような一人一人なんだと思うのです。そんな私たちをそれでも愛し、赦し、私たちを見捨てずに関わり続けようとしてくださっている方がおられるのです。その方の憐れみのゆえに私たちは神の民とされていくのです。そのことを覚えていたいと思いますし、その方をしっかりと見上げていきたいと思います。何というのでしょう。教会というところは、人を見てしまうと、途端におかしくなってしまいます。人を見て躓きそうになってしまうこともあります。教会が神の民とされ、素晴らしいと言えるのは、ただただ私たちの真ん中におられるイエス様が素晴らしいからなのです。