「葬られたイサク」
創世記35章27-29節
本日の箇所には、ヤコブが、ヘブロンのマムレに行ったことが記されています。そこはヤコブの父であるイサクが住んでいたところでした。この箇所を読みながら、考えさせられるのは、ヤコブは最後、お父さんのイサクに会えたんだろうかということです。35:27の書きぶりだと微妙かも知れませんが、35:29を読んでみますと、そこにはイサクが亡くなった時に、エサウとヤコブとが葬ったと書かれていますので、イサクが亡くなった時に、少なくてもヤコブはカナンの地に帰ってきていたのだろうと思いますし、そこではイサクに会うことができていたのではないかと思います。
イサクが亡くなる間際にヤコブと会うことができた光景を思いうかべながら、色々なことを思いました。何より、イサクは嬉しかったろうなと思います。ヤコブにしても、エサウにしても、イサクにしてみれば、かけがえのない息子たちでした。そんな二人が、創世記27章では、祝福をめぐる色々なことでもはや一緒に住めなくなってしまっていました。そうして、ヤコブをハランの地に送り出していたわけですが、それから20年間、イサクはヤコブに会うことができないでいたのです。創世記27章の時点で、イサクはすでに年をとり、目がかすんで見えなくなっていました。この時からすでに、イサクにしてみれば、いつ自分が天に召されるか分からない…。そういう状況だったと思います。その後、20年もの年月が経つ…。イサクにしてみれば、途方もない歳月だったのではないでしょうか。その間、イサクは複雑な思いだったのではないでしょうか。自分が騙されたとは言え、自分が行なった祝福で、そのような仲たがいをしてしまうことになり、望んでいない形で息子を送り出すことになったのです。色々なことを悔いたり、責めたり、その中で、ただただ息子の安否を案じていたり、この20年、ヤコブのことで、他の人には分からないような思いをたくさん通らされてきたのではないでしょうか。しかし、最後の時に、ヤコブと再会することができたのです。それはイサクにとって言葉には表せない喜びや感謝だったのではないでしょうか。
そんなことを思いながら、本日の記述に本当に慰められ、励まされました。私たちの信仰の歩みには、色々なことがあります。嬉しいこと、感謝なことだけでなく、ヤコブとエサウの仲たがいのような、心を痛めるような出来事もあるのではないでしょうか。「何でこんなことになるのか」そんなふうに思ってしまうこともあるかも知れません。まさに、現在、私たちを取り囲んでいる状況も、そんなふうに思えてしまうような状況があるかも知れません。そんな中、迷ったり、悩んだり、心痛めたりしている私たちがいたりするのではないでしょうか。しかしながら、その中で、本日、このイサクの記述から励まされていきたいと思います。私たちは色々な思いを通らされることがあるかも知れませんが、主はそんな私たちを覚えていてくださる…。そんな中、イサクを顧みてくださったように、私たちをも顧みてくださる…。そんな中、私たちの思いを超えて、主の計画と時の中で、主にある最善の業をなしてくださる…。そのことを改めて心に覚えていきたいと思うのです。