本日のローズンゲンの御言葉です。
「彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」エゼキエル37:23
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」1コリント3:16
今朝、福島のWさんから、数枚の写真が送られてきました。写真にはコメントが寄せられていて、「帰還困難区域の夜ノ森の内側も通れるようになりました」と書かれていました。「夜ノ森」とは、福島第一原発の近くにある富岡町の観光名所です。桜並木が大変有名なところです。戊辰戦争後の1900年、相馬藩主・半谷常清の長男、清寿が夜ノ森で農村開発を始めました。その時、記念として、桜300本を植えたのが始まりです。明治維新の戦争の深い傷跡の中、新しい村を作ろうとの思いから開墾を始め、その希望の象徴として植えられたのが、この「夜ノ森の桜」でした。私が郡山にいた時に時々に訪問していた緑が丘の仮設住宅には富岡町の人たちが住んでいたのですが、皆さん「夜ノ森の桜」を自分たちの町の誇りとして語っておられました。郡山にも桜の名所があって、それらの名所にも行かれたようですが、「やっぱり『夜ノ森の桜』がいいよ」とおっしゃっていました。その「夜ノ森の桜」は、長い間、原発事故の影響により、長らく、入ることができなくなっていました。私が見てきた光景は、入り口に柵が設けてあり、その前から見る「夜ノ森の桜」の姿です。そんな中、いよいよ「夜ノ森」に入ることができるということで、感慨深い方々も多いのではないかと思います。とは言っても、原発事故の放射能汚染の問題が完全に解決されたわけではないのだと思います。そんな中、正直、複雑な思いでこのニュースを受け止めておられる人もいるのではないでしょうか。そんなことを思いながら、きっとそれぞれが様々な思いを抱えておられるんじゃないかと思いました。
本日の箇所には次のように記されています。
「彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」
今朝の「夜ノ森」の知らせを聞きながら、改めて、本日の箇所が心に迫ってきました。特に「彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない」との言葉が心に迫ってきます。戊辰戦争の傷跡の後、それでもそこから立ち上がろうと思い、開墾を始めた半谷清寿の思いが「夜ノ森の桜」には表されています。「夜ノ森の桜」が原発事故による放射能汚染にさらされ、かつてのようにみんなでそこに集って楽しむ花見の名所からは姿を変えてしまったとしても、半谷清寿が「夜ノ森の桜」を通して遺した「思いや証し」は決して無くなるのではないと思います。それというのは、何ものをも決して汚すことができないものではないでしょうか。そんなことを思いながら、「彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない」という言葉が心に迫ってきました。原発事故の問題は未だ、様々な場所に大きな痛みや傷跡を残していますが、それでも「変わらないもの」「決して汚されることのないもの」があるんだということを思わされます。そして、そのような思いを大切に握りしめながら、今も原発事故後の復興のために努めておられる方々がいます。そのような人たちの歩みが守られ、原発事故の収束が一日も早くなされていきますようにと祈ります。そして、何より、富岡の人たちが本当の意味で心から「夜ノ森の桜」を楽しめる日が来ますようにと祈ります。